存在
今朝は頭と体が違う行動を何度かし、自分の状態を心配してしまっていました。起きた時に、人間は生まれたら死に向かっているということを生命が脳に伝達しているのかと考えていました。そうではないと考えました。が、自分の頭の中に死ぬ向かう意識があることを夢で見、どこから来たのかと考えていたのです。人間は生まれ、いつかは死んでいくので死に向かっていくことは承知していますが、私は腑に落ちなかったのです。昨年の府中ドリームホールでの大きな会場でのコンサートにて、このことから抜け出せたのです。始まりも終わりもない時間のない空間に在る存在を経験したのです。このことこそ、幼い頃より求め続けてきた生き方でした。この経験をさせていただいていますので、頭の中にある死に向かう意識はどこから植え込まれたのかと考えたのです。今日の応用コースと「存在論」にて、先生のお話をお聞きし、一昨日の府中でのコンサートの経験とその時の反応、その後に浮かぶ課題等、そしてこのことの答えを見出し、安心しました。大脳皮質から恐怖を埋め込まれコントロールされていると言われていたことが、視床下部が各臓器につながっていることが検証されたお話は、頭に光が灯り、やっと抜け出し口が見えたと感じる経験となりました。いつの頃からかはわかりませんが、こうやらねばならないと思い込み、行動することが身についています。物心がついたころより神様がずっと私を見ていると思い生きてきました。この世の評価は価値がないと考えていましたが、神様に評価されたいと願い、とらわれ、自然とこうあらねばならないということが染み込んでいると自覚しています。先生に出会い、運命が解放され、生き方は生まれ変わったように変わりました。唯一神観念がなかなか抜け出せずにいることを自覚するようになりました。私は良い経験をすると、縁起をかつぐところがあり、朝起きたら、行うこと、夜休む前に行うことが決まっています。最近はそれを忘れることが多く、自分ではあり得ないことと感じ、驚いていました。痴呆の兆しなのかと案じてもいました。今日のお話をお聞きし、人間は内から生まれることで動いて行くのだということがよくわかりました。頭から司令し、行動することは忘れるようになっています。内から生まれる気持ちで動く時はとても楽しく、未来を感じます。先生のコンサートにて生命にとって負担がかかること、生きる上で必要のない余計なものはなくしていただいていることを今日程自覚できたことはありません。コンサートで余計な行動パターンや思考パターンをなくしていただいているのに、もの忘れが激しくなったと心配していたことは、愚かすぎて恥ずかしい限りです。府中でのコンサートにて、こうあらねばならないとか、今までの経験により身についた余計なものを引きづるようにし生きる体が重くて、おおいなる存在に受け容れていただきたいと望んでも弾かれるだけで、飛翔できるどころか落ちていくだけでした。願うことも望むことも祈ることも余計なことであり、重荷となることを体をもってわかりました。先生の音と一体となる時、おおいなる存在に受け容れられ一気に飛翔しました。対象化している限り、人間として生きていけないことを身を以てわかりました。生命ひとつに生きることが人間です。
「存在論」ではキルケゴールのお話から実存する為の3つの条件を教えていただきました。一つ目は美に対する反応。2つ目は倫理的実存。人の役に立つこと。3つ目は宗教的実存。人智を超えた存在、はたらきかけがあり生きる人間であることをわかること。私は3つのことは常に感じ、考えて生きていますので、ありがたいと感じます。幼い頃より生まれてきた意味、生きる意味、存在する意味をわかりたく生きてきましたので、先生に出会い、学び、経験することでわかってくることができました。これからは真の自分を活かし、存在する意味を実現していくより生きる道はないとわかる時代を迎え、これからの為に今までがあったと感じています。先生がお話されましたように先生がなさっていることが多くの人がわからないままにこのまま終わってしまったら、人類も終わるということをよくわかっています。それ故に、今よりチャンスはないと甚く感じています。世界に役立ちたく生きていますが、それこそ脳がコントロールされていると本気で悩む程に、植え込まれた神観念からくる恐怖により、生命のはたらきや気持ちと真逆になる意識のパターンにより、今日のように考えられない程愚かになることがあります。視床下部のお話を伺い、やっと抜け出せる喜びを感じています。また関係の縛りもよくわかることができ、救われた気持ちです。死んだらこの世の関係性はないと最近もお聞きしたところです。亡き母からも教えられたことです。心臓破裂し大手術をした時に、一度死への世界へ行ってきたと言う母は、先生の声により生きる世界に戻ってこれたと何度も話してくれました。そして「人間て誰と生きているのかしら」と私に語るのでした。一緒に居てくれたのはいだきしん先生しかいなかったと言うのです。家族はいなかったと。かろうじて私は近くにいたけれど、泣いてばかりで役にたたなかったと。先生からは泣いて人の役に立てるかと喝を入れられていたので、苦笑するよりない話でした。実際は家族が病院についていて、先生は東京から離れた兵庫県のいだき事務所におられたのです。共に生きるとはこの世の距離でもなく、場を共にしていることでもなく、場を超え繋がる生命で生きていることです。関係性とはこの世のことだけであり、死んだら共に生きているかよりないと教えられましたことを今日は思い出し、関係により捉えていくこともこの世で作られた価値観や地位、名誉、富等に囚われることもいかに愚かなことかは明らかにわかることであります。たったひとりより存在しない人間ひとりひとりが存在を表し生きてこそ人間が生きていける世界が作られていきます。大きなことに向かうことは生命が要求しています。時代は大きな方へ向かうよりないとお聞きでき、生命の要求、本音にままに生きていくことができますことに感謝します。世界のどこでもいいので、先生のコンサートを大きく開催できるところへ行きたいと望む気持ちが生まれています。今はコロナ禍でありますので、世界を目指し、日本で大きなコンサートを開催できますように内から生まれる気持ちを表現し動いていきます。ありがとうございます。