存在する根拠
先生の尊い講座に参加させていただける機会を本当にありがとうございます。
存在論にて存在の根拠を問われた時、コンサートで内面に感じることがある、その確かな経験が自分が存在する根拠とまず考えました。応用コースでのピアノの演奏が始まった瞬間にもあまりに可憐で美しい音に感動し一気に胸に風が吹き身体が楽になり背筋が伸び、そして世の中を変えることに参画したい気持ちを心の中で表現していました。世の中を変えていきたい気持ちに意識が集中すると日常の痛みも苦しさも些細なことに感じ内面がどんどん開いていくことを分かりました。先生の音を通して自分の存在と出会う経験をさせて頂いていることが存在の根拠となる手がかりと考えました。そして存在論の後半に、これまでの見て、見られ、現象として証明されてきている存在とは異なる、存在証明のあり方をお聞きできたとき一連のお話が腑に落ちました。生命の中、自分の身体の中で起こっていることを証明するとお聞きし、生命は躍動していました。
しかし愚かにも、順調に、これで良いと思い込んだ頭が、大きな間違いであることにも気づかせて頂きました。それは存在論の最後に先生が先生ご自身の存在を表現下さった瞬間、自分のちっぽけな頭では到底理解しきれない計り知れない存在を感じ、どこまでも自分の感受性の幅、理解の幅の中で先生のことも高麗さんのことも捉えていることに気づきました。思い描くことなど到底できない展開が現実に次々と起こって行くそのプロセスの中で、いだきのお働きの深さを感じつつありますが、それも自分の経験と経験による理解の範囲内のことであることには違いないと感じました。先生のお身体そのもののお働きは計り知れないです。
お金のお話もあり、お金は信用であり、信用できるところにお金は集まるというお話から、信用できるかどうかは自分の存在証明に繋がっていると理解しました。先日地方に住む叔父を身体が悪いため車で送り迎えをして東京に連れてくることを計画したとき、かかる費用をどうするかを考えていました。お金はなかったのですが、最終的には関わった10人以上の人たちが皆喜び、お金も気づいたら集まっていて、かかった費用よりもほんの少し多い額が最終的には手元にあり、何一つ問題にならなかったことが驚きでした。これから仕事をつくっていく上でお金をどのように集めていくかを日々考えていますが、この経験から学ぶことも大きく、また改めて信用とお聞きしたことがヒントと感じました。
日々新しい経験の連続ですが、これで良いということのないことを肝に銘じ、明日も臨ませていただきます。
本当にありがとうございます。