大河
昨日から、久しぶりにコンサートに参加させて戴いております。6月の連続コンサートを経て、およそ2週間を空けてのコンサートでした。コンサートの有り難みは、今までとは違う様相で私の全身にいかづちのように落ちました。先生のコンサートとは、一体何をされているのだろうということを考えずには居れない体感でした。それは、コンサートの後はどうしてこんなに身体が軽くて楽なのか、そしてどうしてその前の重いという体を自覚できないのか…という現実があったからです。
本日もコンサートがありました。昨夜のコンサートでの解放の謎を知りたいと感じて、着席してお聴きしていました。それでも、この私の意識の中ではその謎は解けなくて、「この詩は何なのだろう…。」と感じる音や、「この音の流れを一体何と表現するのだろう…。」という時が至福という一言と共に濃密に私の内に満ちていました。
コンサートの最後の方の演奏の時、美しい大河が流れるようにみえました。それは自分の内なのかどこかの空間なのか、それは定かではないのに、美しい大河が流れていて、「そうか。そういうふうに、生きていければいいんだ。」と私の内に希望が見出されてきました。
人間の生命とか内面が、何ものにも疎外されたり、澱んだりすることなく、その大河のように美しく流れていることが、身体の健康やひとりひとりの幸せともひとつにあるようにみえました。コンサートの間にピカピカになってゆく隣の人の生命にも、その大河がどんどん見出されて美しいままに流れるところまで表現が為されているように感じたからです。そして、人間のその美しさを阻んだり、濁らせることからは、何があっても守らねばならぬことと感じました。
しかしごく当たり前にある今までの私の〈日常〉には、それを阻んだり、濁らせることがどこにでもありすぎることをも同時にわかりました。それは、今までの私の生き方とは、違う世界の厳しさを体感したようでした。しかし、真っ当に生きてゆくときのその心地よい厳しさが私の内を駆け巡った時、春を待つ雪の大地に春風が通ってゆくようなときめきが生まれていました。
なにはともあれ何がどうあろうと、美しい大河の流れだけを頼りに、手がかりに生きていけばいいのかもしれないと感じました。こんなに、頼りになる経験は、無いのではないか、と。
私の頭でごちゃごちゃと思い巡らすことなど、何ひとつ無くなっても、その大河が美しくあるように生きていけばそれだけでいいのでは…否、それだけが大事なのでは…と。
人間の生き方とは、このような生き方がもしかしてあるのかもしれないと感じたコンサートでした。そこだけをみて生きてゆくあり方とは、これから生きてみたい人生でありました。奇跡のようなことに触れられるコンサートをありがとうございます。