大いなる存在
とても富士山が美しい日でしたがコンサート会場に向かう時には、胸が苦しく、しんどい状態となっていました。会場に到着しすぐに「大いなる心」とのコンサートメッセージを読ませていただいた時には胸の苦しみを埋めてくれる存在は大いなる存在よりいらっしゃらないと心の中でつぶやいていました。
「心が閉ざされ、あるいは心が無いかの様な世相であえて「大いなる心」を主題にします。単に頭脳を駆使して経験、学習しても心の本体のありのままの働きを理解するにはほど遠いです。心の無い人は一人もいません。そうでありながら、この窮屈感、不自由感、ちょっと油断すると絶望感にまで囚われてしまいがちです。「大いなる心」「大いなる心」は偉大なる存在との交わり、豊かな他者との交流を意味します」
コンサート前に会場の調律師さんとお話しする機会がありました。いつもの御方ではありません。なんといだきを始めた頃に私の家に調律に来てくださったことがあるとお聞きし、あの頃の空気、風が目の前に立ち現れ、当時に戻った様に快活になってきました。当時、荻窪近辺であったと記憶していますが、ある楽器店を訪ね、出会った方がいつもの調律師さんです。いだき講座をお勧めさせていただき受講いただきました。同じ楽器店で働いていたという方が今日の調律師さんでした。荻窪は初めて先生のコンサートを開催した地です。今日の会場ではありませんが、会場に向かう時から初めてのコンサートのことやいだきを始めた頃を思い出していました。そのせいかどうかはわかりませんが、最初の先生の演奏が初めてのコンサートの経験と重なる演奏と聴こえ、懐かしさに震えました。「愛の音」と名づけていた音です。そして初めてのコンサートの経験により、誰の生命とも繋がり一つである生命を経験し、愛をわかりました。コンサートが世界の平和を実現すると確信を得たのです。今日はその時が目の前に現われた様に聴こえました。次第に、今の自分の状態が露わになり、体のしんどさに囚われてしまう感覚が小さな枠の中にはまっているようで、苦しく感じました。自分がどうかはいらないと身に沁み感じ、先生の音から現る大いなる存在はどのようにお考えになられるでしょうかと考え始めました。先生の音はそのままおおいなる存在のメッセージと聴こえます。自分がどうかを考える音ではなく、大いなる存在からのメッセージをわかる為にお聴きする音と気づきました。大いなる存在から見ると、全ての答えが見えました。自分の世界や何か困っていることがあるとした時にその問題や相手と同じ土俵で考えても答えはなく、次元を超えなければ解決はないとは今までも先生の講座、コンサートで経験させていただいています。今日は大いなる存在をよく学ばせて頂きました。胸の苦しみは自然と解かれています。「心のない人は一人もいません」とのお言葉は心の中心に響いていました。メッセージに表現されていましたように、「心が無いかのような世相」ですが、心が無い人は一人もいないのであればがっかりすることもないのだと考えます。「「大いなる心」は偉大なる存在との交わり、豊かな他者との交流を意味します」を心に聴かせていただきました。言葉通りを経験させていただき、大いなる心を取り戻します。
第二部は、「心の奥まで満たされること」です。
「表面的に反応し、楽観的に生きても崩れるのは早いです。本物、偽物という言い方をするなら表面的な事は偽物で心の奥のさらに奥に通じ、活かしてこそ本物です。心の奥深くに反応し、あらわした時、この広大なる宇宙まで一体として経験できます。人間生命賛歌」
2部も大いなる存在と一体となる経験をさせていただきました。広大なる宇宙まで一体として経験できますとのメッセージがずっと心にありました。その経験こそ「心」を表す経験と考えます。宇宙と一体である時が「心」の働きであるとは先生の演奏により見えた図形であり、私自身も体感することができました。広大な世界と一つである内面を体感し、心がどんどんひらかれ、広がっていきました。やはりここは「愛の音」が初めてコンサートで表現された地と一人で合点していました。今日は最初から最後まで初めてコンサートを開催した時のことが重なる音に聴こえました。一巡という言葉が浮かび、ここからまた新たなスタート地点に立ち、始まると感じます。始まる前は、この体でやれるのかと案じてしまうような状態でも終わればなんでもやれると感じていけることがいつもながらすごいことと感服します。毎回ですが、始まる前のしんどさから人や社会の状況を身を以て感じます。コンサートが開催されるので、生きていけるとも身にしみ感じます。次は京都にて立春の日に開催させていただきます。この日は、大きな節目とし見えるので、皆で多くの人にお伝えできますようにと願います。ありがとうございます。