大いなる存在の表現
久しぶりに7月7日、七夕の日に三鷹の地にていだきしん先生のコンサートが開催されます。朝から強風が吹き荒れています。風はこの世の汚れ、曇りを運んでいます。コンサートがある事を誰も知る事がないのに、コンサートを目がけて闇が集まってきます。闇は方向が見えず、地面に吹き溜まります。一気に引き上げていく方向が見えないと、どんどん闇の世界になる事を風は教えてくれました。今日のコンサートで一気に引き上げて下さると感じ、コンサートに託す朝でした。
久しぶりに三鷹市芸術文化センター風のホールにて、半数ではありますが、コンサートを開催する事が出来、とてもうれしい気持ちで一杯です。コンサートメッセージ第一部は「神性形成」。「神性実現の時代、観念の暴走が許されない時代。心身のゼロポイントから湧き上がるエネルギー、力。共に命あって今から成していく真の時代」。力湧くメッセージを頂き、この上ない幸せに包まれました。第一音から生命全て涙、涙でした。大いなる存在そのものと感じ、私の目には大いなる存在が見えました。昨夜、ノートに向かい、生まれるままに言葉を記す時「遥か彼方より源の光を求め続けてきた生命」と書いている内に、長い生命の流れが見え、生命の内で感じていました。今日、演奏をお聞きしながら、長い長い生命の流れがそのまま見え、はるか彼方の時から求め続けてきた源の光宿す先生に出会えた人生がどれ程の事であるかは、今まで使っていた言葉ではとても表し尽くせないことであります。が、図形で見えた生命の流れ、そして「今」の時に全てが集結している人間の歴史を見、畏れ多いばかりです。
第二部のメッセージ「愛という要素」。人間の生命は愛が実現できる生命とメッセージから深く受け止めました。先日のアントレプレヌールサロンでお聞きした「要素」の意味もよりわかるメッセージに、これからの生き方はこの事をわからずしては生きられない事もよくわかります。第二部も先生の演奏は、生命の内は涙、涙となり涙よりありません。大いなる存在の表現と聞こえます。大いなる存在の現れとしか感じられない先生の演奏に、長い長い生命の流れが見え、それ故の涙、涙なのだと生命で感じていました。途中、突然檀君が現れました。アントレプレヌールサロンの時に檀君はすごい神様と先生はおっしゃいました。すごい神様が私の内に宿って私は生まれました。その後先生は、どんなにすごい神様でも私は若くして病気になったのだとおっしゃいました。そのお言葉を思い出し、一部の演奏中に見えた事の意味がわかってきました。自分を抑え込む様に攻撃する黒いものが自分の身を痛めていると自分には見えていました。檀君がいても、死ぬ目に遭いました。檀君の明るい美しい光であっても生きていけない世の中の闇を見ました。同時に源の光でなければ生きていけない歴史であったという事もわかります。どこまでも澄んで何もない源の光によってより闇の世は変えていけず、人間が人間とし生きる事はできない事がよくわかりました。私は、いつも生命狙われ、自分を隠す事より自分を守る事はないと本能的に自分を隠します。今はその事が自分の身を痛める事になっている事を、最近気づきました。今日目の前に現れ出た大いなる存在、先生とひとつである存在によって私は生きていけます。もう自分を隠さずとも、真の光を表わしていけると生命から感謝あふれます。檀君からバール神へつながる神様の流れも見え、自分が生まれてきた意味まで解かれていく経験でした。そして、愛を前にし、全ては明らかになるという事がはっきり見えました。真を前に偽りが明らかになる様に、愛ある世界は、偽りは偽りとし、誤魔化しも何もかもそのまま現わるのです。この世は偽りの愛よりないという事も明らかにわかりました。真の愛が表現されると一斉に偽りの愛によって作られた世界が押し込めようと動き出すのも見えました。それこそ、そのエネルギーが蠢いた時は身が痛みました。今までは、ここで自分はやられてきたと感じています。今は先生がおられますので、先生とひとつ、大いなる存在とひとつで生きていけます。先生の全ての演奏は、大いなる存在そのものの表現と感じ、見えました。目を開けた時、先生の白いお着物の姿と大いなる存在のお姿が見えました。目に見える様にこれから人はわかるのではないかと感じました。歴史が変わるコンサートの経験を表現できるように、一夜休みまた経験を深め、表現させていただきます。ありがとうございます。