大いなる存在と共にある言葉
三鷹と武蔵野のコンサートの経験を経て、人間は大いなる存在と繋がり生きていることを身の裡に感じる毎日です。
大いなる存在のもとで「私一人」というのは錯覚であり、人間は大いなる存在のもとで「私達」であり「一つ」であるのだと受けとめます。そしてコンサートの経験を疑ったり否定したりするものは、全て余計なものであり、きっぱりと捨てていくものだと、今はっきり分かります。
ここから全て、新しく始めます。
今、気になっているのは言葉のことです。
日本の小説や詩が昔のようなパワーや影響力を持っていないのは、使っている言葉が「個」で遮断、分断されてしまったからではないかと考えます。大いなる存在と共にあって生き、言葉を表現していくと、言霊が息を吹き返して、日本だけでなく世界に影響を及ぼし伝搬すると思いました。
私もそのような言葉を使えるようになって、表現できれば、それは一つの働きをさせて頂ける、と考えます。そう成らせて頂けることを目標に、言葉を表現することをもっと積極的にこれから行っていく意志が生まれました。先日、或る公募に詩を応募しまして、本当に久しぶりに詩が書けたことがとても嬉しかったです。
高麗さんの言葉は、何気ないと思える言葉でも、まるで違います。形は言葉だけれど、私には光が注がれるように感じます。そしてその光はずっと内面に残ります。高麗さんの言葉は「光語」なのだととても実感いたします。
小説や詩の創作には、才能も技術も重要なのだと思いますが、何よりも言葉は光であることを体現していないと、自分の表現が世界中の人類に影響をしていくのですから、そこには自分の生きている状態を、そしてどういう世界観で生きているか?を問われる重い責任があると考えます。才能ある人達は折角ある才能を何者かに使われていないで目覚めて、「光語」を使い表現し、日本をほんとうに根本から復活させて欲しいと心から願います。
つたない表現で申し訳ないです。言葉について、今感じていること、考えていることを思い切って書かせて頂きました。
殆どあきらめていた創作について、いま新しく始めていく気持ちが生まれています。何年も止まっていました、文章修養ノートを再開します。