大いなる存在からの贈り物
コンサートメッセージタイトルを見た瞬間から息をのみ、衝撃が走りました。なんと畏れ多くも、無観客のコンサートにて魂全てで望んでやまない「朱蒙魂」というコンサートをしていただけるとは、夢を見ているようです。
無観客ということはすごいことです。人がいないというのはこんなにも神聖なる空間が作られるものなのかと大変驚き、人の一人であります我が身を振り返り、問いました。
「高句麗の初代の王 朱蒙、東明聖王の魂。新たな人類史を始めた聖なる魂」
メッセージを心に真剣に臨みました。何かとんでもない神話が生まれるような神の秘密が明かされるような緊張があり、人はいないのに、いつものコンサートよりも緊張することに驚きました。パイプオルガンの第一音から全身に振動が走り、武者震いが起こり、嗚咽とも号泣ともつかない涙が溢れでてきます。体を震わせて泣いていました。やがて、彼方からの光が注がれ、朱蒙様の生命に宿り、光が動き始めるように朱蒙様が動いてゆかれます。何故動いたか、何故高句麗を作ったかは光宿る生命であるからとそのまま受け止めわかります。高句麗人がどのように暮らし、戦い生きてきたかがそのまま見えます。高句麗壁画に四神図が描かれていますが、青龍、白虎、鳳凰、玄武が何を意味するかも見えました。戦いには神と一体であることが必須であり、それなくしては勝つことはないということがわかり、戦国時代の戦は神と一体となれるかが勝負を決めるとわかります。
ピアノ演奏になると、高句麗の歴史が見え、私の代までの歴史の道が見えるのです。涙無くしては聴けない演奏です。高麗氏が国司を務めた昔の武蔵国の国府があった府中の地にて木々の緑豊かな大地のエネルギーを受け、今日、この日に高句麗の歴史をすべて受け容れられ、全ての魂が永遠なる魂と昇華し、集える時がくることを誰が想像できたことでしょうか。光を宿し生まれた朱蒙様も2000年後であっても、存在全てを受容される時が訪れるので、生きてこれたとわかる瞬間があり、涙しました。このような表現は通じる世の中ではなくとも私はそう見えたことを受け止め生き、今日先生が表現してくださる「新たな人類史を始めた聖なる魂」を体感、体得したいと心より望み、真剣に聴かせていただきました。魂は2000年後を見ることができると私は知っています。飛鳥の地にて受けた高句麗の僧、慧慈のメッセージからも王は2000年先を見、という言葉がありました。かなり前に先生の頭の音を聴診器で聞かせていただいた時、2000年後を考える働きをしている音が聞こえました。朱蒙様も先生がこの世に現れる2000年先を見、今日のこの時を待ち望んでおられたことを感じ、身が震えるばかりでした。ピアノの音は生命の内に生きる力となり糧となり、まるで血となり肉となるように生命が生きていけるように育んでくださるのです。そのあまりにやさしい音に号泣よりなく、生命の奥深くで咽び泣く無数の魂の存在さえも感じました。感動の一部が終え、あまりの経験に生命一杯幸せに包まれ、嬉しくてありがたくて内はずっと魂が咽び泣いています。なんという音でしょう。なんという演奏でしょう。無観客となりましたが、大いなる存在からのプレゼントをいただいた恩恵にただただ感謝し、この恩恵を受け、今後どのように生き、お返しができるかと考えます。
第2部は、「朱蒙の放つ弓矢」
「朱蒙の魂が放つ神の矢。目には見えないけれども天空に向けて未来の的を確実に射る。我々の前にひらかれた未来を生きる。想像を絶する集中力と現代では顕れることもない強い輝く魂を内に強靭な肉体をもって初めて未来の的を射ることができるのです」
一言一言しっかりと受け止めます。一部での経験ですが、光を身に宿し、動く朱蒙様の現れに感動に震えながらもある時、集中できなくなる瞬間が訪れました。気持ちは焦り、何故なのかと原因を辿ろうとしてもわかりませんでした。こんなことをしていたら目の前に繰り広げられる見たことも経験したことも感じたこともない聖なる魂の歴史を逃してしまう焦りでパニックになる程でした。人がいないので、人が原因ではないことは明らかです。人のせいにもできないと気づいた瞬間、なんという意識があることかと、愕然とし、動揺しました。集中できない意識は何故かはわかることができませんでした。このような時に普段であれば誰かが咳をしたりくしゃみをしているので、そのせいでと考えていたのです。ところが誰もいなくても集中できない自分の意識か頭の問題があからさまに現れたのです。私にとって最も大切であり源であります朱蒙様を先生が表現してくださり、目の前に現れているにも関わらず、この意識とは何なのかと、驚くことに発狂しそうになる不安を感じる程、泣き叫びたくなりました。こんなことに時間を取られることが悲しく、すぐさま演奏に集中しました。先生のピアノの音と同時に生命の内に見えた光景は生命ひとつに生命かけ生命を支えてくれている存在が見えるのです。生命かけ生命を支えてくれている存在を前にし、自分のあり方はどうなのかと一瞬一瞬問われました。恥ずかしいばかりであまりに恥ずかしくて気が狂いそうになります。泣けてならないのです。普段でも生命ひとつに生きてくださっている先生の働きを前に自分の一瞬一瞬のあり方はどうなのかを問われているとも考えました。この様では申し訳ないばかりです。その集中できない意識が2部のパイプオルガンの演奏にて消滅しました。ここに正直に書かせていただきますが、昨日のアントレプレヌールサロンが終わり、駐車場で車に乗る時、先生は私の体の状態をお尋ね下さいました。一夜痛みもひどく人の気配も感じ、眠れませんでしたので、そのままお話させていただくと、「高句麗は強かったんだ。どうなっているのか。」と記憶ではそうおっしゃったと受け止めています。最後に、頭で痛みを作っているという内容に受け取れる表現をされたことがずっと心にありました。高句麗の勝ち続ける戦い方をお話いただき、魂の涙溢れるアントレプレヌールサロンの後でしたので、真に情けないばかりでした。ところが一夜明けた今日はすっかり痛みもなくなり、やはり自分の頭で体を痛めているということがわかり始めました。演奏中、頭が顔を出し、体が痛くなると、先生の音が光となり、痛みにあたり、消滅していくことを繰り返し、新しい生命とひとつの頭になりました。救われた安堵に、また頭が余計なことをしないことに心の底から安らぎを感じました。ただこうして生きているだけで幸せを感じました。ラストのピアノ演奏は地球の生命全ての祝福の合唱をしているように聞こえ、軽快でリズミカルで未来へ未来へと飛翔する魂が光となり舞い、歌い、生命の賛歌が鳴り響き、光輝く空間が広がり、万歳と叫んでいました。胸の内は輝き希望に溢れ、未来へ向かう喜びに満ちていました。私は生まれ持っての真の資質を活かす気持ちが無限な世界に立つ光の柱と立ちました。一部で高句麗の歴史、生命の流れが見えた時、幼い頃に亡くなった姉の魂が現れました。母からは家に生まれてくるような子ではなく、この世の人間ではないような綺麗な子だったので、この世では生きれなかった、とよく聞いていたことを思い出し、また亡き兄が、いだき講座を受けた後に誕生日祝いに「高麗恵子誕生物語」を書き、送ってくれた中に、その姉のことを色白の器量良し、と書いていました。器量とは器に量と書くので、それに良しがつくなら高句麗の魂を受け継ぐ器であったとふと感じたのです。辞書で調べていませんので、勝手に考えたことです。器を持って生まれたとしても生きていけなかったので、私が生まれました。生まれた時から高句麗の魂を身に宿し生まれていました。今日、先生が表現してくださったことを身につけ、生まれ持っての資質を表していくことが生きる道と見えました。
人がいないコンサートとはこんなにも神聖で人生変わる経験となることかと初めての経験でしたので、大変驚きました。次は人と一緒に今日のような神聖なる何のノイズもない美しい澄んだ空間でのコンサートを経験することが目指すこととなりました。人の生命の汚れや歪み、生き方のズレは空間を汚し、ノイズとなります。生命とひとつになれない意識も声を発することがなくてもうるさいということを先生にお会いし始めて知りました。今では当たり前にわかる日々を生きています。今日のようなコンサートが人と一緒に参加しながら開催できれば世界は変わります。その場にいるだけで人間は変わり、人生は変わります。終演後、スタッフに用事があり電話すると、ライブ配信でも同じ経験ができたと感じる声と表現に、すごいことが始まったと感激しました。この経験が世界中に伝播する時は近いと感じ、とても嬉しいです。ありがとうございます。