KEIKO KOMA Webサロン

変容する記憶


28日、三鷹の風のホールでのコンサートでは、愛に反するものを一掃して頂いて、本当に愛のままに、まるく全体となり、素直に自分を表して生きて行けるように、心の負担、身体の負担を全て取り除いて頂きました。
コンサートの前半では、これでもかというほど不調和な想念ばかり吹き出してくるので、このまま終わるのかとふと思って焦りました。しかし、「愛」・・と心にある中心を意識するとき、愛に反するものは今、清めて頂くために裡から吹き出してきていると分かり、吹き出してくるものに惑わされず、中心にある愛だけに心を合わせ、ひたすらに先生の音に心を合わせ続けました。

コンサートでは不意に亡くなった父方の祖母の顔が心に浮かびました。そして祖母との記憶が思い出されてきました。
よく喋って愛想の良い母方の祖母には懐いていましたが、父方の祖母はとっつきにくくて子供ながらに苦手でした。
子供の相手をするのが苦手というのか、いつも困ったようなぎこちない笑いを浮かべていた祖母の顔を思い出します。
早くに祖父が亡くなり、がらんと広くて物も殆ど置いていない田舎の家で祖母は一人で暮らしていました。孫に積極的に話しかけたりすることはなく、いつも自分は自分の好きなようにする感じで一人で動いて、一人で居るような感じがして、子供ながらに戸惑いました。それでも年の暮れに家族で帰省した時は、寒い冬空の下、川に架かる小さな橋を渡って祖母と妹と一緒に買い物に行きました。お正月が終わりまた家に戻るときは、出て行く車をいつまでも手を振って見送ってくれていました。

母は姑である祖母のことを、自分勝手な人だとか冷たい人だとか、事ある度に悪口を言い、子供ながらにそれに影響されていたと思いますが、今、祖母の心の裡が、それがそのまま私の心の苦しみ、悲しみそのものとして、コンサートの中で感じられるのでした。
コンサートで吹き出し続けた不調和な想念は、祖母、その祖母から生まれた私の父、そして私・・・と、連なる何か共通の、自分の力ではどうにもならない、家系全体にのしかかる重苦しいもの、愛にことごとく反していて、愛深く生きる行く手に立ちはだかり妨害していたもの・・・、そういうものを一切丸ごと全部払い浄め、愛一元の世界へと昇華して頂いたと感じられてなりません。

コンサートの終盤に、祖母の顔は生前には見たことのない自然な笑顔になっていました。とても自然な笑顔で私に笑いかけていました。それを見て、どう表現してよいのかわからないのですが、本当にほっとしたのです。
祖母は私であり、祖母から生まれた父もまた私であり、祖母のことも父のことも全て自分の魂そのものの行程として一気に全てを今回のコンサートにて経験し、先生によって引き上げて頂き、一切を払い清め、そして救って頂いた、その言葉に尽くせない安堵と感謝の気持ちであるのです。

子供の頃の記憶というのは、その只中に居る時は空気のように当たり前すぎて、そこに特に何も感じていないように思えたことが、今、不意に思い出されるときには、全ては愛の中にあり、幸せと温もりの只中にいだかれており、それに外れるものは一切無かったことが分かってくるのです。
祖母との記憶、寒空の下を橋を歩いて渡って商店に買い物に一緒に行ったことも、今はそこに祖母と一緒に居た温もりや、山あいの家の周りの自然に触れて過ごしていた豊かさまでもが、リアルに感じられてくるのです。
まるで心の中にあるキャンバスが、途中で描くことを放棄してしまったような殺風景なモノクロの絵と思っていたものが、どんどん綺麗な色が加えられていって素敵な絵にどんどん変化していく、しかもここで完成というものがなく、どこまでも無限に変化していく、そんな不思議なキャンバスに変えて頂いたように感じられるのです。

不意に思い出す記憶というのは、過去では無くなっています。先生によって全てを受け入れて頂くなかで、それは「今」の只中に溶け込み、全肯定され、愛一元の世界の中、全ては一つになっていくのを感じるのです。そしてますます豊かに無限大に変容していく内面となり、その内面は宇宙へと繋がり・・・。
コンサートによって、先生の演奏を一心にお聴きしている只中において、大いなる働きかけにより、時間というものが無くなり、記憶と思っていたものが新次元へと無限に更新されていくことが実に神秘であり、幸せであり、深く救われていくことを実感せずにはおれません。

尊い時を心より有り難うございます。

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