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在り方見直す節目


1部で、本音を疎外しない脳のはたらきを学んだと感じる場面がありました。本音がカタカタと小刻みに振動しながらどんどん大きくなっていくのに、外側からそれを抑え込もうとする脳のはたらきや「何か」があり、その癖や外界からの雑音を溶かしてそれでも本音を強く大きくしていくやり方を教えていただいた体感がありました。自分の本音が豊かなビジョンとなって見え叶うようで嬉しかったです。

2部以降は特にだったのですが先生の演奏が盛り上がるところで必ずといっていいほどカサカサと音がして悲しくて、その音をたてる人の代わりに自分が消えてしまいたくなる感じがあり、しかしせっかくここまで来ているのだから消えるわけにもいかんのだ、と先生の音に集中しました。そういえば前々回の狛江応用コースでも同じ、カサカサ音に悩んだのでした。それほどには気にならない雑音もありますが、このカサカサの音にはとても苦しむので、自分のこととしてコンサートのひとつとして受け止めていました。膝を手で擦る音、紙の擦れる音、なんだかわからないけど、とても辛い。言葉にすると「貧しさ」。器用貧乏性というか、ひとつに集中していない状態。紙クズのように重みのない、鍛えるべきところを鍛えていない状態。まさに自分自身のことでありながら外側からもくるものでもあり、外側からくる場合は何か美しいことや素晴らしいことに集中しようとするとやってきて「そっちへ行かないで。こっちにいて。カサカサ」とささやきます。外側から人間に乗ってやってきた場合はそれらに悪気がないので、足を止めて一緒にいるしかありません。人間はみな平等だからです。

一生懸命に人の良いところを見て好きになろうと努力すること、結果ありのままに見ていないことは、人を社会を嫌う自分を許せない、人間はみんな善であってほしい、善でないわけがない、というとぼけた未熟さのすぎるエゴからきていて、そこに集まってくる音でもある。

カサカサを辛く感じながらも一生懸命先生の音を聴いていたらコンサートは、これまでになくあっという間に終わってしまいました。1部2部あわせても2、3分の体感です。高麗さんの書き込みを読んで、カサカサの辛さは先祖もずっとたずさえてきたことなんだろうなと推測します。

何らかの理由で人間として本来あるべき厚みを失った状態となるのは、そういった在り方が脳に、体に、身についてしまっているため。それ以外に知らないので、いくら気付きを促す光が天から降り注いでも、振り切ってこれまでと同じにあり続けるのだろう。

自分の在り方を見直して再出発します。ありがとうございました。

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