勝手な聞き方
日本(高天原)のはじまり、高句麗の勃興も「同じ」、高句麗では祭祀が王となっている(と先生がおっしゃった)というところを高麗さんの12/20の書き込みで読みました。「同じ」ということは最初の起こりは、日本と高句麗でそもそも違うのかと驚きました。天孫降臨とか、なんだかすごくわかる気がするのと同時に現代人として何十年もがんばって生きてきた頭から、整理がついていきません。いだきに来てからずっと「高句麗は素晴らしい。」と価値を叩き込まれています。叩き込まれるとは、そのままをあらわし続けてきて下さっている先生や高麗さんに対して恐らく失礼であろうことで、高麗さんのがっかりなさるお顔が浮かび、申し訳なく、悲しくなってきます。しかし自分の状態はその言葉がピッタリで、自分の頭で考えなかったり、自分で感じることを放棄する生き様だから自分のせいで勝手にそうなってしまったのです。で、その頭が幼稚園児のままなので、「高句麗は素晴らしい。(他は全部ダメ)」とか、何故かカッコの中が付随して聞こえてきていたのです。当たり前すぎて書くのも憚られるくらいですが、もちろんそんなことは先生も高麗さんも誰もおっしゃっていませんし、そんなふうに受け取られるなんて心外なことであろうとわかります。申し訳ないながらも「高句麗は素晴らしい。(日本は無くてもいい)」とかかなり勝手に長年聞こえてきていたのでした。これも対象化しているから起きるのでしょう。なぜそこまで、誰も言ってもいないカッコのなかの言葉が勝手に聞こえるのか?
ダメな現代人代表選手のようになっていて重ねて申し訳ないです。日本のかみさまには、わたしは、多分、かなりピンときます。もう本当に最初はそうだとわかるものが自分の中にあります。同時に「高句麗」も要として感じられ、僭越ながらその瑞々しさや大胆さの端っこを自分の内に見ることもここ数年あったのです。
まだ何もはじまっていなくて、ここまでを整理するのでやっとなのですが、次はどうしてそんな聞き方をするようになったのかを考えないといけません。なくしていくことが、「もと」に戻る近道。
新しい状態で生きていくことを身につけるアントレプレヌールサロンをありがとうございました。