動けるからだへ
いかに死ぬかは、いかに生きるか。貫くのか、分かるのか、動くのか、役割を全うするのか。いのちの神性はどのような神性かと閃く問いです。動いていると降りてくる問いは、未知で即興で、ことばにするときには既にちがうものになっているよう。
一昨日は、高麗ギャラリーカフェ様にてチラシをお預かり、八坂の塔の前に立ち、からだで感じるままにエネルギー交流、その流れで当日のうちに京都でポスティングできたのは有難い巡りでした。次の11月25日京都講演会、11月27日京都、11月28日滋賀、12月24日京都コンサートに向かう。高句麗伝説コンサートに向かい、東京での講演会との時間ともたまたま重なり、空間はつながっているように感じながらの京都でのポスティングでした。動けるからだのお陰です。からだ軽く、自然と走れるからだは久しぶりに爽快。休まないこと、例えば3時間は続けてやるは日常の中で時間の指針となり、教えて頂きました通りに動いてみると一日中休まず動けました。過去とは違う体感に手答え感じましたので、一過性ではなく継続することが次の成長課題との自覚です。動物の生態の基本は動くことで、人間は動物である。動くことで物事拓けてくる。動かずに太っていくと国滅ぶまでつながる可能性があるのか事実かは未だ分かりませんが、古代からの人類史を垣間見たようで、こういう話をお聴きするのは大好きです。自分の中の堕落性、罪の意識との関係性を知り、因果律を解いていく生き方へ。また困難に向かう生き方がいのちのちからを解放していくようです。
今日最終段取りをして、明朝京都、奈良からバスツアー的に高句麗伝説コンサートに向かいます。いのち交流して、歴史的因子は紐解かれていくようで刺激的です。今日も一日宜しくお願い申し上げます。ありがとうございます。