再誕生・「美」への要求
一昨日まで、今習っている太鼓の教室を辞めて別のところに通い直そうか迷っていたが、まずはそれをきっぱりと辞めた。教師の扱う運動理論と私が実践している運動理論が合っていなかったのはもちろんだが、お金を払ってわざわざ不元気になりに行くなんてなんと物好きのすることであろうかと考えたからだ。これは一昨日のコンサートにて人生をとてもつまらなく感じていた時を思い出したからだ。今思うとその時は自主性があまりに欠けていた。数ある選択肢のうちから自分で選択し結果を導きだす手応えをせっかく今感じ始めているのだから、それをわざわざ損なうことはしたくない。なのでまずは実践した。
じつは一昨日のコンサートより前に、侮辱を受けて私はそれこそ烈火の如き怒りに満ち満ちていた。それが、一昨日のコンサートにて第一部、第二部が始まる前の言葉に大いに癒され深く頷くよりなく、かつてない集中力で昨日のコンサート含め臨むことができ、たいへん嬉しく思う。どうか自分の個人的な欲求を満たすようなつまらないコンサートであってくれるな。もうつまらない経験に嵌まりたくない。深い、深いコンサートであってくれ。どうぞ度肝を抜いてくれ。そう願いながら臨んだ。
そのほとんどを目をつぶりながらふだん聴いているコンサートであるが、目を離すことを微塵も許されなかった。演奏が終わった後にすぐ拍手をすることを忘れていた。周りの拍手の音を聞いてしばらくしてよりハッとわれにかえる。こんなにも我が置き去りになって夢中になった時はあっただろうか。
『美(しいもの)』を求める心が。こんなにも強くなっている。アンドレ・ギャニオン氏のピアノの音を聴きながら、人は美しいものを目にしながら、聴きながら、同時に何かを憎々しく思うことや争うことはできないのだ、と実感する。平和への何よりの貢献とは私にとっては、『美』を産み出すことに他ならないのではないかと考える。そんな人生を歩むと決め、ともに歩める人と出合おうと心に誓う。コンサートについて言えば、自分に必要かそうでないか、人に言われなくても自分で判断できる、自律できる(であろう)方をお誘いすればよいのだと考えている。私はパンフレットをお渡しするだけでいい。あなたにとってこれがなぜ必要なのかなんてああだこうだ言う必要はないろうと。もちろん補足的なご案内はするが。
今までの私は、自覚していなかったけれど、人を殺していたのだ。自ら元気を失うことをしていたということは、自らも周りのことも殺していたことに他ならない。なのでそういったことは二度とすまい。
先生のピアノを弾くお姿を拝見しながら、ふと、「そうだ先生は奥さまを亡くされているんだよな」と思う。なんと強い方であろうか。最愛の方とともにいられない状態になってしまう。自分だったらなおこんなに力強くピアノを奏でることができるだろうか。あたかも奥さまが隣におられるような花を飾れないだろうか。不遜であろうがそんなことも思った。私も愛する人を自分で見つけられるようになりたい。
「美」に話を戻すと、民芸の世界には「用の美」という本来性に美しさを見出だす活動がある。さてはて、私はどんな「美」を産み出すことに人生賭けようか。これからがまこと楽しみだ。
私の思う美しい世界は何だ?①笑い合う、②話し合う、③助け合う、④認め合う、⑤愛し合う、、、今のところこんな「合う」世界かしら。その世界の実現には、オレがオレが、私が私が、の我にこだわっていてはどう考えてもできない。美しいものを感じながら我を張ることはできない。さあ、「美」を産み出すゾ。
中川秀之