KEIKO KOMA Webサロン

内面深く深く辿り


第一部「存在認識」

存在していることをお考えになることがあるでしょうか。
考えが深まれば深まるほど存在している事実の中で不思議にとらわれます。
存在神秘という言い方をしている哲学者もいます。
存在を観念としてではなく、しっかり認識していただきたいです。
一人一人の命は尊いです。
存在がぼやけていては生きている充実感は得られないでしょう。
未来は定かに描けません。
表面的な意識では捉えることができないのは、厄介と言えば厄介ですが。
深い意識により確かに認識する「存在」です。

 

第二部「愛の証明」

愛の証なくして存在はあらわせません。
言葉であらわすとすると、せめてもヨハネによる福音書の
「はじめに言葉あり」という意味に通じる言葉でなければ
あらわすことはできません。
言葉以前に愛があります。
何事においても愛がはじまりです。
何かやっかいです。
何でやっかいなのでしょう。
存在を打ち消され、
愛は適宜につくられ、
結局何かわからなくなってしまいました。
それでも人の命、生命は素晴らしい。
この生命の内に存在の芽、光が醸成され、
愛の気運が高まっています

今日は朝から体が痛み、先がなく、目の前が塞がれていくやりきれなさを感じる重荷を身に受け、とても苦しかったです。会場に着き、開場前になり、息をしても痛み、とても皆様をお迎えできる状態ではなく、コンサート前に大変申し訳なかったのですが、先生にお伝えさせていただきました。先生がすぐに舞台に出て、ピアノを弾いてくださいました。先生が昨日身に受けておられましたエネルギーと見え、私など、息しても痛む痛みを感じている重荷や世界中の重荷を身に受けて解決へと向かう表現を瞬間瞬間、即興演奏により生み出す先生のお働きの凄さは言葉によっては表し尽くせません。ありがたいことにすぐに抜け、開場できる状態となりました。ありがとうございます。

メッセージは求めてやまない内容です。「存在認識」と知り、今日のこの時に最も必要なメッセージと生命で感じ、開演を待ち望みました。存在の香りを感じる演奏に深く感動しました。高貴で神聖な香りに包まれ、存在の風に吹かれているようで最高に心地よいです。そして内面を深く辿り、存在について考える尊い機会となりました。生命の中心に存在を感じました。そして外の空間にも存在を感じます。私の場合は見え、感じるのです。どこでも次元を超えても存在は在ることに驚きました。その後には存在を消されたような、つぶされたか打ち消された状態が見え、その状態は死を意味していました。存在しないことは生きていることにならないと身が震えながらわかる経験でした。現代人は存在を問うこともしなくなったのなら、生きていることにはならないと気づき、恐怖をも感じます。存在について深く考える一部での経験でした。

第二部は「愛の証明」です。「愛の証なくして存在はあらわせません」「言葉以前に愛があります」「何事も愛がはじまりです」上記にメッセージは掲載させていただいていますので、部分の表現で恐縮ですが、どのお言葉も重要であります。メッセージ通りを演奏から経験できますことほどの恵みはありません。ピアノの音は存在の風を感じました。一音一音は心に触れる音ばかりです。存在していることは愛と感じ、愛があり存在しているとわかる経験をさせていただき、感動の連続でした。あるところで、何かを示唆するような音が3度聞こえ、内面澄まし聴かせていただきました。私にはイエスキリストの存在が見え、感じました。十字架にかかった後は言葉以前に愛があった状態ではなく、愛をつぶされ、言葉だけが先行していく世の中になったことを見ます。愛なき言葉は虚しく、偽りの人生となり偽りの関係となり、偽りの社会を作ります。先ほど身に受けた痛みの原因を調べた時に偽りの社会が崩壊しはじめていると見えました。愛なきものは崩壊します。「存在を打ち消され、愛は適宜につくられ、結局何かわからなくなってしまいました」とのメッセージの中身がよく見える経験となりました。それでも「生命の内に存在の芽、光が醸成され、愛の気運が高まっています」時を迎えていることが希望であり、生きる力となります。内面深く感じることなくして演奏を聴けない次元を超えた演奏と感じ、常に内面深くを辿るようにし深く、深くと感性を研ぎ澄ましてお聴きしている時、突然異音に脅かされ、体が緊張しました。すぐにいびきと気づき、なんともやりきれない気持ちとなりました。その後は人が寝てしまうことを気にしてしまうのです。いびきは何度も聞こえます。私は共に働く人には、先生の講座、コンサートで寝てしまう状態で仕事をしてほしいとは考えていないので、大事な時に寝ることなど一切なく、目覚めるように普段はたらいてほしいと強く言ってきました。強く叱ってきたという方が正確ですが。。。先生が生命賭けて解決への表現をしてくださっているのに、寝てしまう状態は耐えられないのです。普段から存在表し、本音で生き生命が生きていけるようにはたらいていれば先生の講座、コンサートで寝てしまうことなどあり得ないのです。世俗ではなく、いだきなのです。生命犠牲にする仕事をしている訳ではないのです。生命の働きとは反して生きている状態は先生の演奏を聞くと、眠ってしまいます。緊張がほぐれ、助かっていることはわかりますので、何も言えませんでしたが、存在なくしては生きていることにはならないと経験した今日のコンサートでは、寝てしまうことは悲しく、やりきれなくなりました。毎回のコンサートで寝てしまう人を見、耐えられなくなる私の弱点が露わになりました。受け止め、今日こそ改善する時と考えました。まるで先生がおっしゃっておられるように、「まわりがどうであるかではなく、自分が存在表して生きていればいい」と言われているようでした。深く頷き、周りを心配したり気にしている状態は、悪魔に取られている状態と見え、今日でやめると決められましたことに感謝します。存在を表し、余計なことに気を取られずに、生きてみます。ちゃんと生き、遠い地で起こっている無惨なことを阻止する力となればいいと心の底から望みます。11月に2日間続いて風のホールでコンサートを開催することになり、ただ事ではないと感じていましたが、やはり只事ではありませんでした。世界は危機も危機です。この状況下での先生のコンサートです。何があっても駆けつけるべきコンサートと考えます。身に受けた体の重荷からも只事ではないことを身をもって感じます。明日も皆様と共に無事に集えますことを願います。ありがとうございます。

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