内発性に働きかける音
半音上がってこんな私でも受け容れて下さる音に、人から化け物を見るような顔で驚かれそそくさと去られる私でも受け容れてくれる音があることに、驚愕したのです。もはやピアノの音には聞こえないとてつもなく美しいものは、星空に手が届きそうに、内面に星屑が降りそそぐように、全てを癒していく。暑く焼けそうな内面に、虹色の氷を模した先生の音が降り注ぐ。どんなにはみ出た人をも受け入れてくれる音。半音上がる変化球はこれまでを凌駕して内面を赦し受け入れてくれるのでした。
第二部では自発的に動いて、動かされてたまるものか、と鋭く眼光を光らせる内面が、自らの内側で怒りを発しながら始まりました。誰かの叱責や「良いことをしている気持ちよさ」に酔う浅はかさ、それらの単純な罠に負けて、その気になりやすい私は内発的な光を無視して動いてしまう。動いてたまるものか。私の中の内発性が、外側の自発的に動こうとしてしまう自分に往復ビンタを喰らわせる。「小馬鹿にしてるんじゃねぇ!」ぱぁん!「人のこと見下しやがって!」ぱぁん!あぁ・・・スイッチを、スイッチを下さい。カチッと切り替えると内面モードに切り替わる、外側には飲み込まれずに、集中して内面の言葉を紡げるそんな切り替えスイッチを下さい。いや、スイッチなどなくとも常に内発性で生きていたら良いのだけど・・・。良いことなどしてたまるか。動いてたまるか。そんな風にこじれてよじれて大変なことになってしまった私の内面を、頑なに固まる命を、そのまま包み込み溶かし変容させていくのはいだきしん先生の音だけだ。ピアノの音に奇跡を見る。天地を割る衝撃音、まるで古い付け爪を剥ぎ取るように、指先の内側から一掃していく雷土。緻密な人間性。
会場が騒々しかったのは新しいお客さんがたくさん後ろにいたからだ。物を落としたのもそう。わざとやって様子を見ているようなところを感じた。私も昔そういうところがあったなと思い出した。しかしそれを排斥することを望むのであればボランティアの方々はなんのために頑張っているというのだろうか。未熟な私にはやはりちょっとこの世界(いだきしんコンサートの全体)は、わからないことだらけなのである。この日のために準備をしてきてくださる先生、高麗さん、スタッフさん達を前にして行儀が悪いのは勿論だめだけど、そんな都合を知る由もない、初めて来た人であればある程度は仕方が無い気もしてしまう。あれくらいは私の知る世の中では普通で、でも世の中の普通の在り方は、先生が渾身の力で演奏して下さるいだきしんコンサートにおいては許されない。自分はともかく、連れてきた人までもそれを望まれるのか・・・いだきに人を連れてくるということは、そんな不自由な世界に人を巻き込むということなのか。不自由?不自由とは?一お客さんとしてですが、禮儀について改めて考えてみる機会に恵まれたことに感謝致します。前半で帰ってしまった彼らが、前半のぶんだけでもコンサートを細胞に溶かし込み内面変容することを願う。受講生の中で今もいだきと繋がっているのが何割か、その中で1回のコンサートに参加するのが何割か、その中でwebサロンへ書き込みをするのが何割か。その最後の何割かの中の1が私ということは、分母の受講生の中には私の感じ方に、どことなく共感して下さる方もいらっしゃるかもしれない。