光満ち溢れ出す体
最近のコンサートでは講座2日目のときに体感したように体の中の光が膨れてきて、蓋をしきれなくなります。気を抜くとすぐに自分がどうしたいのか、何を感じ考えているのかわからなくなる半端な状態の中で、後から学んだ知識がそれを加速させているのを感じました。光を隠そうとする蓋が、まるですごく頭の大きい人がちょこん、と帽子を載せているように小さくなっていって、溢れ出す光を隠しきれなくなっていきます。それは講座2日目の体感と同じです。一生懸命光を押し込めようとする癖の壁は、無力にも瓦解していくのでした。これまでは生きていくために一生懸命壁を作ってきましたが、これからは生きていくために一生懸命溢れ出す光の方をサポートしていくのだとわかりました。津波の例はあまり良くないですが、まさに津波が光で波を抑えきれなかった堤防は壁と感じました。
先生の体は金色とも銀色ともつかない色に発光して、私の目には見えませんが「この体感のときは神様がいらしている時だな」という瞬間瞬間も、目を閉じるとやはり講座2日目に体感したように押し込められてきた光が膨張して膨張して、沢山見えて溢れてきます。
お一人お一人同じように光を押し込めて相手にわかると頭や経験で判断した言葉を使って、その言葉を受ける側も相手にわかると判断した言葉で話し、お互いの内面分かち合われない言葉を使い、そうして大人となってきた現実を認め受け容れ、より幸せで深い関係性をつくれる一人一人に成れば良いのだとわかりました。
連日の催しの中、生きていく厳しさは錯覚ではなくて、生きていくのは実際厳しいんだともわかります。例えばずっと前にこちらのwebサロンで、周りの人がよそよそしくて何かと思ったら自分では気付いていなかったけど適切でない発言をしていました、と、ある方が謝罪を書き込まれていたとき、私は例のごとく「なんて恐ろしいんだろう」と脅えました。何を恐ろしく感じたかというと、そんな一つの発言だけで周りが一気によそよそしくなるのを怖く感じました。そんなの本当に仲間なのかしら、と思い、だったら最初から何も言わないほうが良くないかなあと感じました。そんなおっかない世の中嫌だなあと。しかし実際の世の中はそのくらい厳しいものだと今はわかりました。それは世界が平和になっても同じで、自然の中では適切に勝ち続けるより道は無く、それ以外は、間違ったり外れたりすれば生きていけなくなるという結果になるだけなんだとわかりました。ただ、時に間違っても、即死には繋がらない場合も多く、すぐに気付いて変えていく感性を大切にします。
世の中変わらないと諦めるのでは無く変えていくように生きます。
ありがとうございます。