信じた道を誠実に
この期に及んでも『まっとうに生きる』『まともにはたらく』『自律・自立する』ということを考えようとすると→『就職する』『アルバイトをする』という方向に頭がいきそうになり「オットット」と思考を引き止めます。就職やアルバイトはもちろんしても良いのです。ただ、それ(これまでと同じ行動)1択で何も考えられないことが問題です。この期に及んでも親の影響や、身に付けてきてしまった信念、観念のものすごく強い自分自身に恐怖感すら覚えます。かなり必死で親や学校に沿うようにやろうと努力してきた子供時代の自分を感じます。地元が大事だからこそ✈️???動いています。「べつにこんな時期でも関係ない!自分一人が娯楽でエンジョイするためのワガママでコンサートや講座に行きたい!?」「自分が楽しむためなら、みんなに菌をばらまいたっていいもんね?」などという心持ちでは全く「ない」のです。なかなか伝わりにくく、「勝手な人」「自己中心的」の烙印を押されやすいです。本当に私のことがそういう人に見えるとしたら、なにかそういう共通の敵のペルソナをつくることで、蓄積した激しい怒りを発散したいんじゃないのか?とすら感じてしまいます。地元のほうから見ると「何も考えていない馬鹿」となるようで、いままで親しくしていた地元の人らとはここ数ヶ月で関係が変わっていきました。ただ、わたしは一番良いと信じた行動をします。そのことが将来、今私を心配して「馬鹿なこと(動くこと)はやめろ」と止める人たちのことも助けるかもしれないからです。地元や家族を愛する・・・というか大切に感じる気持ちはたぶんそれらの人たちと同じですが、なぜだか視界が違うということです。
18日は飛行機を使ったことで、「盛岡さいぐ」という嘘が家族にばれまして・・・(盛岡はなぜか許される)
「あんた飛行機で盛岡さいぐの?」
「・・・いわて花巻空港経由でいぐんだ。」
こんなあからさまな嘘がばれて、「こんな時だからこそ、いだきしん先生にお会いしに行ってくる」と正直に伝えました。みんな心配してくれるんですが、私はこの行動が最善だと、体の感覚から確信してしまっています。信じた道をいくしかありません。
盛岡の催しのときも毎日実家と行き来をしていたために、無意識に「実家脳」になっていたようで、狛江では得体の知れない感覚になりました。自分だと思っていたものが自分ではないような・・・ただ、おいしいものが好きなので、生きていける!と目が覚めるほどおいしそうなもののお写真(世の中には眠くなる美味しさもありますが、そういうのはじわじわと生きていけなくなる感じです。)や話題がたくさんあり、食毒のお話なども聞け、ここの情報や存在とともにあれば生きていけることを感じました。
胎動、実は感じています。だから流すわけにはいかない、流れないようにするのは自然なことです。それを「おまえは間違えている!」と平気で流産させようとしてくるのはやっぱりなにかおかしい。その自覚のないのもおかしい。私の受け取り方、感じ方に問題があるのかもしれませんが、まずは感じたことをそのまま認めなければ嘘も本当もありません。