仕舞い込む癖と気づき
風のホールのコンサートで、始まりの音が身体にじーんと沁み渡り、直ぐにこの身が糾されました。つづく2音3音もこの身に沁み渡り、凄いコンサートがはじまるのを感じました。しかし振り返れば高句麗のような音になる前の演奏はもう既に覚えていません。記憶は既にできなくなりました。唯高句麗の音の演奏ではいのちの幸せという1部のメッセージを思い出していました。空間が拓き広がり、唯ここにいるだけで幸せないのちになつていました。
2部では聖なる音がときには純粋な水の糸が弾けるように右の耳から聴こえ、次には左の耳から聖なる存在を感じる音が風のように周って聴こえて来ました。聖なる風が周るなか突然体のなかに凄まじいエネルギーが嵐のごとく入って来て上昇し、通っていきました。身体はいつも頭を超えていきます。何が起こったのか訳がわからなくても途轍もないエネルギーが身体のなかを一気に駆け抜けていったことだけは忘れようがない体感です。2部の後半になり何かが自分のなかで変わりました。ふと感じたのは、コンサートで良い経験をしてもその経験をしまい込み、ときには神棚に上げ、ときには引き出しの中にしまい込み、大事に包装して取っておきはしないかということです。大切な服ほど、特にマーブリングは直ぐには着ないで取っておく癖といえるのかどうかわかりませんが直ぐ着ないのです。コンサートの経験もそうしてはいないか、、するといろいろな人達の顔が浮かんできました。大事にしまい込まないで、普通に、日常に、そのまま現せばいいだけなんだ!特別な何かを掴んだわけじゃないよね、とスーッと目の前が拓いていきました。取っておいたつもりなど無かったのにつもりだったとわかったとき自分の傾向がはっきりしました。今は外側の包装が少し剥がれたような感覚です。日常もきっとこれをやっているのです。
なんだか今はさっぱりした感覚です。
三鷹風のホールのダイナミックなコンサートをありがとうございました。