今
盛岡での応用コースを中継にて参加させていただきました。
とても面白く、中継が切れるや否や活発に動き出していました。内面豊かであることはいろいろなことが同時にやれ、あらゆるところにひらめきがあり、目に飛び込む情報ひとつにも未来のヒントを感じ、生きる素晴らしいことに感謝が生まれます。世界は人の内面が豊かであることを第一に急務としていることをコンサートで表してくださったことを意味深く感じます。
先日京都応用コースにて「言葉を紡ぐ」ことを教えていただいた意味を分かりたく、好きな小説を辞書を片手に読み始めました。言葉を適当に曖昧に読み流すことを辞め、わからない言葉も自分の使えない言葉はほぼすべて辞書で引きながら読み始め、するとそれまでぼんやりとしていた風景がリアルに浮かび上がり、なんとなくとらえていた話の流れも人の心もドラマを見ているようにわかりだし、自分はこれまで言葉を無思慮に軽々しく扱い先生が何度もご指摘くださっていたことをさぼっていたのだとわかりだしました。自分の未来を拓くのも、自分をわけわからなくしてしまうのも言葉であると感じ、今更ながらですが学びなおすことが面白く感謝よりなく感じています。海外で学ぶことは自分のひとつの夢でしたが、完全に自分の隙をつかれ、すべてを無にしてしまったことがどうしても受け入れがたく認めがたく一時はその記憶まで抹殺し記憶喪失になるまで落ち込んでどうしたらよいのかわからなくなってしまいました。正直自分の隙があるという状態も、危険や未来に起こる結末を回避できなかったことにも蓋をし、問題を理解しないまま、過去の出来事は時間の流れに従ってなんとなく忘れさられるよな曖昧性の中に生きていたと感じます。時間が解決するということや、他の何かによって過去がなかったことのように消えるなどということはありえず、曖昧のまま現在に残っているということこそが問題であったと今になりよくわかってきました。「時の流れ」「ゼロポイントフィールド」のコンサートを経験し、今日の応用コースでさらにわかることがあり、感謝よりなく感じます。ゼロポイントフィールドのコンサートの経験は不思議でならず、経験した不思議はどう表現されるのだろうと考えています。過去も未来も今にある、という「ゼロポイントフィールド」から「開かれる運命」への経験の最中、自分の中には親しむ感覚とまるで経験したことのない未知なる感じが同時にあり、親しみのある感覚を好きと感じたり、わかってほしいと感じたりすると同時に、今までに経験したことのない感じこそ本当であるはずという胸の開く清々しさがあり、全部が同時にあるという不思議な体感でした。過去に経験したことのないことはわからないものですが、コンサート中、未知という開かれた感覚を確かに感じ、数日経った今、徐々にこの自分の感覚にはない、むしろ知らない未知なる感じの方が未来へ向かう正しい感覚なのかもしれないと考え始めています。かつて機会をすべてを無にしてしまったのも、過去の感覚に完全にはまった結果なのです。当時正しい判断ができなかった、危険を回避するチャンスがあったのに、それを自分で物にすることができなかったのは、それも運命ということの正体をよくわかっていなかったこと、そもそも生命を表現する言葉を理解できていなかったこと、意味のない言葉で勝手な解釈をつくりあげていたことなど、隙や理解の浅さ未熟さ故の結果であったと理解します。
量子論から意識、意識から精神へと進む先生のお言葉をお聞きし、わからないながら、連続するコンサートとその経験を言葉で理解できる機会を通じて新たな精神が築かれていることを感じ、生命の中心に新たな柱が立っていく体感でした。これは一つの民族やひとつの集団ということではなく、人類共通のこととしてあるということを身に刻みます。
食べること、微生物のこと、農業のこと、地球環境のことも先生からお聞きする情報は自分たちの未来への選択に必須のこととして身体の中に入ってきます。先生からお聞きすることで明らかに自分たちの意識にアンテナが立ち、必要な選択と新たな基準がつくられていっていることを感じます。こうして進んでいけることが心から愉しく感謝いたします。心より感謝申し上げます。