今
5月13日、高麗さんお誕生日を心よりおめでとうございます。前日の12日は、迎賓館でのコンサートに参加させていただき、ありがとうございます。迎賓館コンサートにて“今”を生き続けられる本質的な生き方を経験しました。この身体をさしおいて、身体の前に出しゃばる頭で捉えようとする全ては“過去”になってしまうようだったのです。先生の生命から生まれる即興演奏の場に居られる空間は、今を生きる最高の情報を経験して習得できることを知りました。今の一瞬を捉えて生きられることの心地よさを覚えると、この小さな自分の頭はもう一歩も前に出ないでほしいという気持ちになります。そして、今を生きている自由なる魂も、この小さな頭では捉えることなどできなかったのです。私の父も肉体がある時よりも、生きている感じがしていました。生きるって、そして死とは…、本当に何なのだろうとは毎日考えていることですが、昨日の迎賓館コンサートでもより一層に深く考える時はありました。肉体としてはこの世に在り生きているはずなのに、頭の中だけが先行して魂の宿る肉体がない、その身体を失う様にして生きている人間は、生きているといえるのか。それは死んだ人間が亡霊のように動いているかのようにも見えるし、どうしたらあんなに不幸そうな惨めな状態を歩く姿だけで表現できるのか、その人間の生命と身体の表現力の素直さには畏れをも感じています。そして肉体は無いけれど、どうしてこんなに居るとか在るということも、起こっているのだろう…と。
そして高句麗のこと、朱蒙のこと、弓のお話をお聞きした後の今生まれる即興演奏に、心身の全ては逃されることなくどっぷり浸かっているような心地よい時でした。真っ直ぐに進む弓矢のような流動が、凄まじく真っ直ぐに私の身体にも駆け巡っていました。身体の中に起こるその対流のような現象の時、私の胸の中のあたりで、何かの生き物がうごめいているようにありました。物理的に本当に何かが動いているので、薄気味悪さすら感じましたが、どこかわくわくもするのです。普段の生活上では起こり様の無いことですが、コンサートの場ではその生き物の存在は見事に捉えられたようでした。この世にはびこった偽りの人生の中で、身体に蓋をしていたものが、うごめくようにうずうずしているようでした。これが抜けたら私は死んでしまいそうでこわい、と一瞬かすめましたが、しかし何故か、それは覚醒の瞬間やもしれぬと感じたのです。自らの魂であるとすら錯覚するようなその重みがぬけるとき、それは覚醒とも密接な関わりがあるように感じたのです。その身体の中、生命の前にはだかるものが退く時、この日の下に現れる何かがあるような予感がしていました。強大な力を以って封じられてきたものが、それすらも包み込むような大きな力によって、まさしく目が覚めるような気配でありました。この続きの展開は、次はいつどこで起こるのか、予想や期待は何も無く、その未知なる今がおもしろいのです。コンサートでは、個人の世界で生きている時の経験とは全く違う、世界や日本そして全体と通じている“今”を経験します。だから最新のコンサートを経験すると私の生命は、とても内面も身体も広くあるのだと考えます。その場で気付きうるのは、精錬され続ける生命にふっと語りかけてくれるような存在でありました。それは人間は豊かに生きることは当たり前のこととしてある最先端の世界のようでもあります。その最先端の世界は、いつも先端でありながら、もうずっと何十年も前から存在し、人間とも共にある時空のようでもありました。そうして、いつも寄り添うようにしてあるのに、わざわざ隔たりを生む選択をすることが出来うるのもまた人間のようです。それは、この先端の世界がいつも満ちている空間から逃れて生きるなど出来ないどのような生き物も、自らの選択には言い訳ができないということでもあるようです。このような優しさが満ちている自由は、人智を超えているように想います。そうして、気付き得るチャンスに溢れている私たちが、この時代を生きる人間の真であると感じています。