今日という日
8月は今は亡き命のことをよく思います。第二次大戦が終わる年、東京大空襲、広島、長崎だけではなく、日本中が破壊されました。アメリカの実験場では、日本の街並みが再現され、焼夷弾の効果も何度も確認の上の爆撃です。どれだけの方が亡くなるか分かった上での攻撃です。どれほどの人たちの日常生活が破壊され、亡くなり、生き残った人たちの運命が変わっでしょうか。一人一人の命が蔑ろにされ、モノのようにされました。しかし、今、色々な無念な思いは、共に生きる存在としてあることを感じます。
先生のお話のあと、花が綺麗ということを考えました。私は小さな花でも、そこにある時、なんともいえず笑生まれ、温かな気持ちになります。よく咲いてくれたねという感謝の気持ちになります。その状態が、内に花が咲いた状態なのか、対象化しているのか。感受性はよくなっていないはずがありません。しかし、単によく使われる表現ではない本当の自分の気持ちを表す言葉であるか吟味する必要があります。言葉は人により受け取り方も違い、本当にわかってもらうには、どんな場、状態で使われたのかがわからないと伝わらない時があります。でも優れた詩人や、古の俳句の達人は、あんな短い言葉の中に全てが生き生きと匂い立つようにあり、時には宇宙までも感じます。言葉という働きの凄さです。
取り止めもない話になりましたが、今日も生きて命あることにありがとうございます。後藤美香