今まであらわることのなかったおおいなる存在あらわる時代
心地よい秋の風が吹く迎賓館の中庭にてお浄めコーヒーを頂くひと時は、人生の豊かさ、幸せを感じます。今日もいだきしん先生の演奏を聴かせて戴きました。軸が決まってからは背筋を伸ばし、姿勢を正した方が楽という体感を覚えるようになり、とても嬉しく感謝します。腰から隠され秘められた王様の存在が現れ、ものすごいエネルギーが生まれてくるのです。体はどんどん熱く、はち切れんばかりのエネルギーが湧いてきました。胸や頭まで上がってくると今度は苦渋に満ちてくるのです。何故こんなに辛いのかと考えました。王であることを受け容れてもらえない、認めてもらえない感覚が生まれてきます。言葉にするとこのような言葉になってしまいます。これほどの苦渋に満ちた感覚は言葉には表せないものであることをよくわかっています。「王であること」、このことがとても辛いこととし、はだかっていました。次の瞬間、私の生命から「私は王ではないのに…」と呟いた時、我に戻りました。自分の中に隠されるようにあった王の存在が辛い状態であったということが明らかとなり、急に解放感に満たされ楽しくなりました。休憩の後の先生のお話は最近深く考える事であります。WholeとAllの違い、解釈ばかりでは何もわかったことにならない、また頭で理解したところで経験とし身につきわからなければわかったことにならないということは頷くばかりです。お話の後の先生の演奏は、生命はとても心地良く感じているのに何故かとても辛いと感じることが自分で理解が出来ず、困りました。先生のお話と解釈という言葉がずっと心にありました。意識の限界と気づいた時、大いなる存在に出会えました。今まで現れ出たことのない大いなる存在をわかることなくして、これからの時代は生きていけないことを身をもって経験しました。空間から聞こえているメッセージであり、見えていることでもあり、よく詩に書いていたことでありますが、真にそうであることを実体験しました。大いなる存在は解釈することなど到底出来ることはないとよくわかります。そして今の時代は今まで現ることのなかった大いなる存在現る時代であることをよく理解し生きることが要とわかります。先生の存在も人類史上初めてであることをよくわかることが生きる要です。意識でわかることの限界を今日身をもって経験し、全体となるよりないという事がよくわかりました。
「高句麗始まり」コーヒーがこの世に登場してから真があらわる予感が生まれています。気配からも感じています。第5弾のコーヒーからは今まで知ることのなかった高句麗王が現れます。私の体は変化し始め、大変なことが起こるのです。自分の内に隠され、隠れていた王が現れる経験をした迎賓館でのコンサートはただただ驚くばかりでした。体は腰から熱く、エネルギーが上昇していくとてつもない経験でした。日々、人生初めての経験をさせていただき、大きく変わるこれからに希望を抱き、生きていきます。ありがとうございます。