今と未来、開かれて
2021年が明けて、13日の「高句麗伝説」ではあまりにも壮大な世界を経験しました。客席と舞台を見渡せる場所にいてコンサートを聴いていました。その場所では、こんなに一人残らず幸せないのちであるということが、あるのだという世界を見ていました。座られているお一人お一人は、いのちは皆幸せそうであるのが御姿に現れているようでした。みんな幸せないのちだね、と誰かに言いたいような気持ちで、その時がこれほどの嬉しい場面なのだということを経験しました。
そして、今までの私が世間で見聞きしてきた“時代をつくる”という言葉の概念はぶち破れました。それは過去のどのような人が時代をつくるなどと言ったところで、過去を引きずる人間には能力的に無理があり限界があるということです。「高句麗伝説」では、本当に人間が生きられる世界を創ろうと生きてきた人たちの成せる業を知りました。それも人類が始まってからの、長い歴史の中で生きていた方々です。そしてそれは、先生という光と出会った時に起きる出来事のようで「高句麗」も、もはや昔の国ではなく、今にまさしく生きている「高句麗」の真の力を目の当たりにしました。時代を、世界を、これからの未来を、今に総動員に創っていました。遠い昔に生きた人々であっても今に融合出来る光をみつけて、その場所でひとつになり、場を創っていました。これからの真に人間が生きられるその場を、創っていたのです。その方達の魂の在り方に、大人になるということの素晴らしさを教えていただいているようです。何をも歪めることなく大人に成長できる世界、真に人間がトータルに成長する世界はあるのだという真実に希望あふれる今であります。客席からまっすぐに舞台へ向かう若者の瞳があれほどに芯から輝く姿が、ふっと私の目に映るとき、このようなコンサートが為されることは普通のことではないと想うのです。
「高句麗伝説」で私は一体何を経験したのかと言うと、『これが生きられる世界なのです!』という本心から生まれるその一言に尽きます。天は「高句麗伝説」コンサートの舞台には実現されているようだったのです。「高句麗伝説」は、風にのせて、魂に伝え、世界のどんなところにも伝播して届いてゆく表現のように感じます。そして「現実」と「内面」とをどこか乖離しているように捉えていた私の詰めのあまいところにも光が射しています。それは、単に「内面」と「現実」がひとつになっているというだけでもない事が起きているようであります。それはどのような時代でも輝いて元気に生きられる在り方を得る片鱗のようであります。外出することは一大事の世の中であっても、これらが終息した後にも、私には人生があります。今にしか得られぬこと、そしてそれが今とこれからの時代を輝き生きる生き方を得る最大の機会なら、私にはこの機会も一大事であるのです。
無事に座らせていただき、参加できまして誠にありがとうございます。