人間として生きる
死について、存在論の講座を有難うございました。人間としてどう生きるか、言葉があり表現があり豊かな時間を過ごさせていただき嬉しく感謝申し上げます。
いつ参加させていただいても必ず深まり豊かになり、上昇し続けていく熱を感じられるのはここでしかなく、こちらで生きていくのが本当だとしっかりしないとと正されます。
全体を経験させていただき、人間であるのに全体性を忘れ理解してゆけず表面的部分的なことのみ切り取り安心しているのは怠惰で危機的な状況と分かります。正しいことを言っている顔でどんどんエネルギーがなくなっていってしまう報道等、実態を見極めていかないといけないです。
先生のお言葉を聞きしていると明確に整理されてゆき大変有難く感じます。
社会に出て仕事するとは部分で生きることなのだと、あきらめるように感じたこともあります、そこにいると落ちていくばかりで、それでもなぜ皆生きていられるのかだれも問わず、感謝もせず、支えられているものが何なのか気にも留めず、生きていられることを勝手に誰かの手柄のようにされるのは、貧しく人間のやることではないと分かります。
私自身も日常生活で元気がなくなっていき、ときには高麗さんの言葉も聞きたくなくなってしまうことがあり、それは全体を忘れ気をとられているのだと気づきます。
どう生きるか、実存とお話をおききすると、私自身の課題として周りを見て反応で自分のやり方を決めてしまうところを問題と感じます、本当に向き合っていくのが怖くいのだと思います。
人との関係において歪みがあるというのも感じています、無意識のうちに取引をしているような、間違ったことをしていると感じています。例えば男性を前にすると、基本的に敵対していて、何としてでも気に入られることで、あるいは気を遣うことで結果的にはこちらの言うことを聞かせたい、思うように動かしたいという何かがあるように感じます。非常に狡猾というか、まっすぐに生きて来れなかったと感じ、根深いものも感じます。
私自身はどのように生きてゆくのか問われます。大切に生きてゆきます。
人間として生きる最も大切な機会をいつも作ってくださり有難うございます。