京都コンサート
ロビーには、古代フェニキア、シリア、グルジア、イラン、高句麗の遺跡の写真のパネルがズラッと並べられ、休憩時間に見入り、この度のコンサートの意味の深さを感じました。
一部のパイプオルガンの音は、世界から宇宙遥か彼方まで一つにする壮大なはたらきを感じざるを得ない演奏に、宇宙空間に身を置き、この度はとてつもない開催であることに身が震えました。
二部のピアノの音は繊細でありながら空間を切るような精鋭なる指さばきに1音1音光を打ち込まれるような体感は深まり何かに変容していくようでした。半ば過ぎ、私は宇宙遥か彼方へ飛ばされるように瞬間移動しており、ここは前も行ったことがあるが、久しぶりにまた行くことができ、言葉にすると、宇宙の生まれる三段階前の世界にいたように感じます。こまかで面倒な意識は一気に抹消されるように、ただ、そこに身を置き、また、地球に戻ってきたようです。
府中コンサートでもかすかに蘇っていた本音は、京都コンサートの経験によって、生命の奥ぞこに礼儀正しく、挨拶するように私に駆け寄りました。
ここは外してはならない本音であり、生命と等しい本音であります。その、本音を手伝ってくださる人もおぼろげながら、現れていることが近頃の希望です。
リストアップしていく中で普通なら蘇ってきてもいいはずの、私にとっては当たり前の本音なのですが。蘇ってこなかったのは不思議としか感じません。自分でやっているのですが、あらゆるものを被りまくり、中心から外れ、それでもどこか、変な内面だ、と感じていたことの答えがわかりました。帰りの高速バスの中で、ある不思議な力を体験します。前も高速バスの夢の中で異次元体験をしたことがありましたが、この度は正気の時で、驚きました。そして、この経験から、脳裏に浮かぶ光景もあり、コンサートは終わったのですが、家にたどり着くまで、まだ終わりを迎えていない持続型のコンサートであるように感じ、光景から閃いたものは、とりあえず受け止め感謝します。この度の生死を分ける要となった京都コンサート、福井からもこの度は余裕持って早めに来ることができた、と友人たちと話もできる余裕があり、良かったのです。別の来れなかったお仲間のお一人は昨年暮れから具合が悪く自宅療養されていると聞き、コンサートのアンコールではその方の幸せを祈りました。
新たなところで、本音を実現していくにはどうしたらいいか、手つかずですが、表現し、道を創っていきたいです。この度のコンサート開催、ありがとうございます。