京都にて
濃密な二日間の経験をありがとうございました。先生の講座のあと、高麗さんのお話をお聞きしながら気づいていくことが多いです。
人生50年より生きられなかったかつての人間の生き方の記憶があるのではないかと先生が仰ったときには、正に、と目が覚めました。人生100年時代においては、3度も4度も人生をやり直せるとの先生の言葉に涙が溢れ救われていきました。歳を重ね、死の間際の心理状態が10年も20年も30年も続くと考えると、生きていける気がしないのです。
「愛のしほり」珈琲は本当に美味しくその体感は今もあり続けています。日本文化をお聞きして、未熟さからは分かりようのない素晴らしく美しい日本人の姿を感じました。生きることが年々輝きを増し年々味わい深くなる、そのような人間の生き方があるのなら、生きてみたいと強く惹かれました。
なぜ、私は「人の最期」にこだわっているのか、自分自身への問いが発せられました。それは私にとっては自明のことであったと気づいたときから、問いとなりました。自分の生まれた環境や親の仕事がそうであるからという自明であるという覆いの中で問うたことがないという気づきを得ました。介護をやるために生まれて来たわけではないのですが、今の仕事を選択している自分は何なのかと、ここから問います。
感受性トレーニングは小説を読むことを教えて頂き、ゲーテのファウスト第一巻を読み始めました。一度目は最後まで読み流し、二度目もう一度最初から読み直していると、無駄のない美しい言葉の旋律に、自然とまたページを開きたくなる、読みたくなっていくことが不思議です。確かに、日常的にも、理屈では理解しても感情が承認できないこと、感情が許さないことは起こります。今朝は、ファウストを読んだあとに、書きたくなり感情を表すように言葉を書いていました。書いているうちに、葛藤は喜びに変わっていました。結局は戸惑っていた事に気づきました。
精神が貧しいままでは枯れていくな、と感じます。枯れ草に生命をふきこむような言葉を見つけていきたいと感じます。