京都にて
京都は、1月11日の「高句麗伝説」コンサート上映会からスタートしました。先生の静かに広がる音空間に、聞いたことのない高麗さんの御声胸に響き、胸にドーンと入り、どこにいるのか不思議な経験となる始まりでした。東京高麗屋さんにての経験とはまるで違うのです。銀座ヤマハ、東北での経験の中で身体が変わったからと、ちゃんと今をわかり向かいたいと、応用に参加しました。応用コースでは、座っているのがやっとで、偏頭痛の頭を抱え、頭を余計なことに使っていた箇所が痛んでました。寝るよりなく気づくと朝でした。朝は、まるで違い身も軽く目が覚め京都で始めてスーッとした気持ちになりました。人に会っても、全然違う新しい感じに、気づくことも多く1歩踏み込んでいける自分でした。午後、京都の2日目。いだき存在論とNPO高麗の「死について」の講演に参加しました。真の自分と一体化していた方が抜けた今、身体ごと支えられていたのだと、抜け殻の自分はこれから体力を付け、全てにおいて育てるように、真っ当な動きを身につけ人間として美しく輝き、楽しく、幸せになることが、今まで力になってくれていた全てにお礼であり感謝の意となると感じました。歩き方、動き、話し方、表現の仕方すべて。身体は大人でありながら赤子からのスタートのようです。自分ではどうすることもできない過去を整理くださり、これからを創りつずけてくださる先生、高麗さんと出会えている今です。日々の暮らし丸ごと生かし、生命働かせて向かうことを望みます。
その後、高麗さんのビデオ講演会、ビデオメッセージでお伺いする高麗さんのお話の中で、これからは「稼ぐ」と伺い、それも桁違いの数字の表現に驚きながら、自分の胸の内は、喜びで満ちます。ついにときは来た!と、ドキドキ、ワクワクしています。いざ、出陣です。真っ当なことからより成らないと感じ、真っ当とは、と問うとき高麗さんの生きる姿が指針と感じ、先生のいらっしゃる時代にあり、高麗さんのいらっしゃる今、すべて宝モノです。すべて身につけていくことと感じ考えます。
尊い時、先生、高麗さん、ありがとうございます。