コンサート、ジェンダー、ありがとうございました。
書き込もう、と文章を作りつつ、的確な表現が浮かばなかったりで中途半端になり、
また、刻一刻と変化する状況や自分の気持ちに表現が追い付かず、何日もかかりました。
いかに日頃、しっかりした表現をしていないか、考えさせられます。
私は15日の方しかコンサートに行くことはできなかったのですが
18日のジェンダーも15日のコンサートもどちらも、私にとっては、恐怖がテーマでした。
コンサート直前、ちょっとしたきっかけから、ずっとあった恐怖が表に出たところでした。
死ぬこと自体は恐怖ではないのですが、死に至るまでの、長い孤独がずっと恐怖でした。
私は一人っ子で、不妊のため子供もおらず、親族ともつき合わず、友人にも頼れない性格ですので
両親が死んだら孤独になり、誰にも助けてもらえない、というのが昔からの強い強い恐怖でした。
結婚というものも、男女関係はどんなに仲が良い時期があっても、別れたら大半は次の日から他人、ということを痛感してきたため、何の救いにもなりません。
そんな恐怖の中のコンサートだったのですが、中盤、とてつもない幸福感と共に、大樹の下で、自分が至福に包まれた状態で死を迎えるというイメージというか、一種の体験が、自分の中にありました。
別に未来が決まったわけではなく、一寸先は闇なのは変わりないのですが、それでも、この体験があれば、長く生きることも最早恐怖ではない、と思える体験でした。
16日のコンサートは、私は行けず、母だけ行ったのですが
コンサート後、母から「私は高句麗人!」と、びっくりするほど元気なLINEが送られてきました。
母の隣が空席だったと聞き、勿体ないなと思いつつ話を聞いてたのですが
その空席に、亡くなった母方の祖母が座っているのが見えたそうです。
祖母は、いだき講座第一、第二を受講するために一時期我が家に来ていたのですが
その時期だけは、別人のように笑顔があり、人間的に感じた、そんな人生の人でした。
母も私も、コンサートにより、自分の頭の中で作り上げたことにはまっていたことから抜け出せた、という体験を共有できました。
18日のジェンダーの序盤では何故か魔女狩りが頭に浮かび続け、悲憤で気分が悪くもなりました。
フランスはかなり魔女狩りが行われていた場所と記憶しています。
1/2の京都のコンサートに夫婦で行かせていただいて以来、天地がひっくり返ったように夫婦仲は良くはなったのですが
男女の問題を考えると、やはり、恐怖がつきまといます。
人目を気にしない性格で生きてきたつもりでしたが、ジェンダーに関しては、恐ろしく自分が人目を気にしてきていることを、初めて自覚しました。
女子学生は中性的であることが好ましいとされるというお話がありましたが、私は狂信的と言っていいほど、長くそれに忠実であったように思います。転換点は昨年の弘前のコンサートであり、徐々に、堂々と自分の女性性を自ら潰してきたのは、人目を気にしていたからであり、自分が世間から見て「正しい」存在であることをアピールして安心する、そんな小心な生き方だったからだと、時間をかけて咀嚼しています。
これまでのエロティシズムは禁忌とは切っても切れない関係で、何が正しいか自分の頭で考えたこともないままに、暗黙のルールに忖度してきましたが、一体誰のためにそのように生きていたのか、何がそんなに恐ろしくてそれらに従ってきたのか、考える日々です。
バタイユの『エロティシズム』を購入したので、少し勉強していけたらと考えています。