わかるとき
高麗さんの昨晩の書き込みを拝見させていただいて、今日になり、そうか、とふと気がつくことがあります。好きなこと、それを形にしていく時、今まで経験したことがなかった分野で、しかもどこにも答えが見つからず、最低の知識と言えるかどうかも定かでないほどのことしか持ち合わせない時、どこからか必ず応援し助けてくれる人が現れます。今までどのような形にせよ、必ず協力してくれる人が現れてくれることが不思議と感じていながらも、何故、と深く考えてみることもなく、運がいいくらいに捉えていました。助けがあることに生意気にも慣れてしまったのかも知れません。ふと気付いたのは、3才の頃から好きなことに目覚め、10才でその道に入るきっかけを親が与えてくれ、その後ずっと親は目指す道に向かう自分のことを何があっても支え、協力してくれたことにもちろん感謝はしていても、当然のように、自分の好きなことさえしていればいいと、我が道を行くくらいの気持ちでいました。好きなこと、それも一つのことだけをしていればいいと、それが自分の生きる証と考え、実際にそう生きていました。他のことを知らないので社会性がいくつになっても身につかず、人が当たり前にできることができないことも特に不自由とは考えることもないまま気がつけば30才になっていました。社会も変わり、好きなことだけでお金を稼ぎ、自活できる社会ではなくなっていくなかで、色々なバイトをしながら過ごしました。好きなことが根底にあるので、バイトをしてはいても、貧しい気持ちになることもなく、好きなことはずっとあり続けました。だから生きて来れたのだとおもいます。そしてある時、今までやったことのない分野がひらけ、挑戦しました。食べなくても寝なくてもやらずにはいられないのです。挑戦できるきっかけは、人が運んで来てくれました。知らない人でしたが、その人がきっかけになり、最後は自分でやるよりないとわかり独学で挑戦し、形になりました。その後も、好きなことで何かをする時、必ず応援と協力してくれる新しい出会いが訪れるのです。そのような出会いが訪れるのも、必ず言葉にし、表現していたからと、昨日のアントレで納得します。今も何かやることが出来上がった時、応援してくださったり、助けてくださる人との出会いが訪れます。親と自分との関係は、3才の頃芽生えていた好きを認めてくれ、好きにやらせてくれていた親だったからと、昨日のアントレがあり、高麗さんの書き込みを拝見し、そうだったのかとはじめて気がつきました。好きなこと、一つだけにとらわれ、他をみなかったことは、いだきで言う、疎外でした。先生のおっしゃられる、好きなことをしなさいは、好きなことでいつの間にか自分で自分を疎外し、他の可能性を無くしてしまうような生き方しか出来ない好きではないことを今はわかります。それも、一見いいと思っていた親との関係からはじまっていたことであり、またいつも助けてくれるようにして訪れる出会いも、親はいつも好きなことで身をたてられるように協力してくれていたからと、すべては自分の育った環境にあり、頭のなかにもあったと、はっきりわかるときを迎えられました。漠然としていることは観念になってしまいますが、わかるときが来たことがただ嬉しく感じます。ありがとうございます。