ともだち
応用コース、そして高句麗伝説と、二日間を共にさせていただき心から感謝致します。応用コースでは拙い質問でありましたが長年の疑問が解けたばかりでなく、何度か伺っていたはずの、先生の高校時代の微笑ましいエピソードがまるで青春映画を観るように鮮やかな映像となり心に焼き付き、それがひとつの答えとなりましたこと、なんて先生は粋なのだろう!と感動し、今もその感動は続いています。先生に、友達の定義として話して頂いた「気心が知れている」「喋れる」そして「相手に何かあったら、ほっとかない、ほっとけない、ということ」。これはつまり、付き合うより先に、友人とは?と、定義を持ち出すことは、物理的に不可能だ、と気づきました。もちろん、相手に何かあったら、自分は動けるか、と自問して、YESと言うことは出来るかもしれません。でも、それはあくまでも仮定の話で、実際にそうならないとホントのところはわからないのだな、と。以上の理由から、私の探していた定義づけなんてものは、ホントのところ難しいし、出来ないのかもしれないと気づきました。気づいてから以降、私の中にある変容が起きました。それは、あの人もこの人も「友達」と呼べる可能性がある!という喜びでした。先に「友達」というモノサシ(そんなものは無い!)でもって人を測り判断するなんて、あり得ない。それよりも自分が愛に溢れた人間となりしっかり生きていくことが結果的に、いつか「友達」を助け、その人は「友達」だったんだー!と、気づく。なんて素敵な優しい生き方だろう!と、気づきました。先生のお話、体感としても、大変わかりやすいお話をしてくださり、誠にありがとうございました。朝一番の飛行機で今朝、故郷に帰りました、今、飛行機が着陸しました。尊い二日間を経験した者として、まっすぐに人生を歩んで参ります。ありがとうございます。