とける
9日の府中でのコンサートでの経験を誰かに表現したい気持ちで、書き込みします。
いつも生家にいると感じる悲しみと苦しみが、今日はより一層強くそして重く感じられ、そのあまりの重圧に身も心も押しつぶされそうになりながら、コンサートは始まりました。それは昔から何も変わっておらず、そして私は何も変えようともせず、気のせいだとかもう無くなったんだと思い込んでやりすごしてきただけだったのだと、はっきりと自覚しました。しかし今日は生きていけないのではないかという、そのあまりの重みに、この悲しみに答えをくださいと本心から望んだことは初めてのことでした。漠然とした感覚や問いを言葉に出来る能力とそしてその答えを求められる環境が、無かったという幼少期をようやく脱していける今の時です。
代々の人間の、運命の中で翻弄された世界を見、そこに本当の自分を顕すことも表現することも出来ず、自分をそして自分たちを生かせぬ、延々と答えのない悲しみの中で生きて来た人たちの歴史がみえるようでした。その人たちの、永い間の本当の望みはなんだったのだろうかと問いながらも、私はここでこの悲しみをおわりにしたいと望んでいました。自分に子孫がいたのなら、この悲しみを担わせるわけにはいかないこと、こんな思いをしてほしくない、と。悲しみや苦しみが代々親から受け継がれ、親と同じになるだなんて、これほど自覚したことはありません。子供は子供で、そして子孫は子孫で、自分とは違う人間であり、そして自分の在り方とは違う人生を生きる。まさかそのまま受け継ぐはずがないだろうと。そしてこんなに自分のように悲しみを受け継ぐことはないだろう、と。私の家のかつての誰もが、後の人が自分よりも良い人生に生まれ生きていけることに望みをたくして代々があったのではないかと想います。しかし、子孫は同じ重みと苦しみを痛いほどに受け継ぐこと。そして代々、代が増えるごとに受け継ぐ重荷は薄まることなどなく、増大すること。これが、人間の真実なのだろうかと驚いて、真実を受け止めました。
それから、今の自分の苦しみがそのまま後の人に受け継がれるとしたら、後の人にたくしている場合ではないこと、そして今ここであらゆる、真を隠してきたものとの、決着をつける時が来ている事を知りました。そんな中で、今までおさえていたことがコンサートのピアノの音の中で反すうされて反響が起こり、押し込めていた悲しみと共に見事に溶けてなくなっていました。なんという解れと解放だろうとその心身の心地よさに、涙が流れました。
何も話したわけでもなく、相談とか考えるとかこの世の次元での解決方法では既にありませんでした。コンサートの音の中で何もかも受け容れられ、変化が起こっています。いのちに苦しく、実際にそこから身体も重くなっていたことが解決されています。いだかれるとはこういうことをいうのかなという経験です。私の内面と身体ごと全て、誰かにやさしくかかえられて、いだかれているような安心感と安堵があります。全方位から、うけとめて抱けるという事があるのなら、まさしくその状態です。人間の両手でも為し得ないことがピアノの音によって実現されています。
この経験が心身の「良い」という新しい基準となり生きてゆけます。何が良い経験なのかもわからないまま、私の今までの人生の中での苦しみとか痛みが、苦しいという表現になるのだとわかるまでに、時間を要しました。自らの感情や心身の状態を一体どのような言葉で表すのかがわからぬまま、時に言葉と状態を真逆のままに捉えている事もあります。今、人間としての基本的な、最初にあるべき感覚が戻ってくるというのか、教わっているようです。幼い頃から自分のことをそのままわかれば有難い人生だとは想いますが、人類の経験したことのない良い状態を今経験できていることは何よりの希望です。
今までの歴史のどこかで、もし今のような私たちが経験できている生命があったのなら、今日の私の生命はこのようにはなっていなかったと想います。この感動が、そしていのちの明るさが、人類の到達したことのない道への一歩であることを生命は知っているのではないでしょうか。
コンサートを、誠にありがとうございます。