ただの人
わからないことをわかると言うと、カルト宗教のようになるので、次にわたしに出来ることは、現実をしっかりと生きていくことでしかないという気持ちです。わからないことはわからない(認めた上でわかりたいのであればわかろうとする)、見えないものは見えない(認めた上で、見える人とどう付き合うかを考える)、そうしていかないと特にこの現代においては(昔や未来でもそうかもしれませんが)何かとても不安定なものを信仰している人になってしまうので、望むところではないと省みます。せっかくのマーブリングなどもわたしのような人がいれば「盲目で献金している」ようにはたから見えてしまい愛に泥を塗ります。ただの人、ただのわたしという立場からわかっていくことを大切にという答えに辿り着きました。多分これらは当たり前のことなんですが、私はなぜかすごい人といると自分もすごいと勘違いしやすいです。自分に自信がないからと考えます。こういう自分に自信がなく他者に依存しやすいところは、知らない人から見たらまるで洗脳されているかのように見えてもおかしくなく、誰も洗脳する気のないところへ勝手に(もちろんお客さんなのでお金を払い許可は取っていますが)来て自分の考えも体感もわからないままわかった気になって、それを知らない人から見たら「いだき」が怪しいところに見えるという構図、そう見せているわたしというのは邪魔以外のなんでもないと思いました。
おおいなるはたらきかけというのは、私があまりわかっていなくても、いだきコンサートや催しへ行くためであればある程度は助けてくださると私は感じるので、その感じ方が正しいとすると、はたらきかけは、理解の深さというよりはただ単に体、いのち、意志にあるのかなとも感じます。これに甘んじていては、存在論などで先生が教えて下さっていることや、常に新しく生きることを放棄してしまいます。
そして大切にしてきた価値観は過去のもの、自分の先祖や地域特有のものだからこそ、それを持っていないくてもうまくいくのだとまざまざと見せつけられます。これは自分がふんわりとはたらきかけでうまくいったとしてももう一人のがんこ頭な自分としてはひどくショックなものです。こういうところがなんとも、一人でまるでギャグ漫画のように右往左往する言語化しづらいところなのですが、とにかく「いだきに出会ったただのわたし」という当たり前の再スタートと感じられる今を、ありがとうございます。