すべて自分の中身で出会っている事実
10月1日の高句麗伝説が終わり、翌日に行ったいつもとは違う銭湯で、(いつもの銭湯が定休日のため)今回は日にちが合わずに来ていただけなかった方と又ばったりとお会いしました。出会い頭に、昨日はどうだった?と高句麗伝説のことを聴いてこられました。そのとき偶然か必然か、今はいだきとまったく関係なく生きている元受講生がその場にいたのです。脱衣場にいたのはこの巡りの人だけでした。しかもわたしの隣にいたので狭い脱衣場では会話は筒抜けです。高句麗伝説ということばを聴いてその人はそそくさと場を離れ、番台に座る銭湯の女将さんのところに行き近所話をはじめました。講座に来なくなっても家が近いので郵便受けにコンサートのチラシをお届けしたり、メールでお知らせしたりしていましたが返事はなく、それでも偶然に街中でばったり出会うときは命がコンサートにいきたがっているとしか感じられない場面が何度かありました。そして何度かコンサートに来たのです。そのときは助かったと喜んでいましたが、又日常に戻り忘れていくのでしょうか、とても久しぶりにばったり出会った時にはとうとう病気になっていました。それも深刻な病気です。わたしも新居に引っ越しをしていたのでよかったら遊びに来ないと誘ってもみましたが。。近所でも会わない時はまるで会わないのです。今はわたしを避けていることもわかったので一切いだきのことは話していませんが、一年以上出会わなかったときの出会いは満面の笑顔で病気になったという報告でした。とても変な気持ちになりましたが、いつも満面の笑顔で接してこられる姿に反対に強い拒否を感じています。高句麗伝説の前の日には出会わず、終わった翌日に、それも高句麗伝説をお伝えした方との板挟みという状態での出会いに生き方の姿勢を感じてなりません。なぜいつも満面の笑顔?というその人の頑なさにいつも辟易していましたが、自分も内面と反し、天邪鬼なことをまだ子供っぽくやっているからとふと気がつきました。すべては自分の表れでした。良い、悪い、という自分で勝手にに作っている幻想からも一歩出ると、今まで仕方なく作っていた毎日のご飯作りがなぜ仕方なくなったのかがわかる気持ちがします。美味しいということが外側にあり、内側ではめんど臭いという感情になっていました。頭が問題なので今はときどき右脳が痛み出します。
先生の存在をわかれば誰でも天才になることはわかるのです。
ビデオ講演会を毎日発信してくださって、いつも本当にありがとうございます。