おおいなる存在とひとつ
第一部「闇の脳を超えて」
闇は楽しい。
闇、と一言でいっても、なかなか抜け出せないところでとどまりつつ、戸惑いつつ、時により苦悩を人に訴えて誰かに承認してもらおうという欲求ばかりが強くなり、延々と続くかにみえます。
おそらく当事者はこのように言われると、それを承認されないということで否定します。闇の世界が楽しいというと怒られそうですが、これは一例です。創造できる脳はどこにいってしまったのでしょう。人の脳は創造するのです。しかしながら、創造することで結果的に闇を展開することが多いです。
闇に一筋の光を!
第二部「存在のままに」
絶えず自他をコントロールしようとして結果はままなりません。コントロールのうちに隙間ができるという説があります。これではとてもコントロールなどできません。制御不能、即ちコントロール不能な状況が推移しています。そもそも「存在」を制御、コントロールできるのでしょうか。存在そのものは対象にできません。ゆえに当然多くのコントロール下にあって隙間ができますね。
遥か昔、いつの頃からか存在のままに生きたことのない一人一人に、今や存在からのはたらきかけは無限にあります。まったく新しい愛のはじまりでもあります。
一部のメッセージは唸るほどに身に覚えがあり、畏れ入ります。「人の脳は、創造するのです。創造することで結果的に闇に展開することが多いです」となればお手上げです。お手上げな状態を解決してくださる演奏をお聴きできますことに喜びばかりが生まれます。ピアノの音もパイプオルガンの演奏も大好きな音であり演奏でした。闇が好きなのかと複雑な気持ちになりましたが、先生が演奏されているので、光により闇が消えていくと見え、感じました。ふと頭によぎったことの行く先は死でした。生きているということは死に直結しているのだと気づいた時、この次元で生きている状態こそは闇であると苦笑しました。ある時から私の内からは力が生まれ、はるか彼方からも光が注がれ、内の光と外から注がれる光はつながり、光が生命の内を通りました。最後は、物凄い炎が燃えているように見え、闇を燃え尽くしていく様が見えました。闇を食べてしまう働きも見えました。光が強くなり、闇は変わるのだと希望を感じます。
第2部はいつもの反応なのですが、後頭部が掴まれているようで痺れてきました。が、しっかりと姿勢を正し、演奏を聴かせていただきました。2部の演奏も素敵でロマンあふれ、大好きです。より本質が見えるクリアーな世界がひらかれています。パイプオルガンの演奏の時に、おおいなる存在と一致する瞬間が訪れました。それまでは対象化する意識がどうしてもありました。神でさえも、おおいなる存在でさえも対象化してしまうのです。が、一致する瞬間が訪れました。全身感動の波が押し寄せ、胸の奥深くから震えました。イエスキリストの存在を初めて対象化せずに、存在そのものに出会えました。十字架にかかり、死の瞬間までも神と一体であったのだとわかり、感極まりました。人間としこれほどの感動があるでしょうか。この瞬間が生きている瞬間です。パイプオルガンの音はこの世の音ではなく、聴いたことのない音であり、おおいなる存在が現れることなくしては、鳴らない音とわかる次元を超えた音でした。生きてこの音を聴ける恵に深く感謝します。アンコールのピアノ演奏は愛よりなく、私はこの瞬間瞬間が大好きです。生きていると生命すべてが躍動します。やはり願うことはこの経験を世界中の人と共に分かち合いたい気持ちが生まれます。大いなる存在と一致でき、真の人生を生きていけます。自分では闇の頭から脱却できず、対象化する意識がなくなることもできずにある限界を乗り越えさせていただき、心よりありがたく、夢のように感じます。人生変わる経験となりました。真の人生を実現できます。ありがとうございます。
愛麗花ちゃんがコーヒーを淹れてくださいました幻のコグリョカフェは、3時半ジャストに詩を書き終え、お菓子も全部なくなり、どなた様にも行き渡りました。こんなに美しい流れは初めてです。すべてがよく、美しかったです。愛麗花ちゃんがひたすら美味しいコーヒーを淹れ続けてくれたので、皆で一丸となりはたらけました。今後に活かしていきたい美しい仕事の仕方を学び、覚えました。かけがいのない経験となりました。ありがとうございます。