うまれていること
京都での先生の「存在論」「死について」、高麗さんのビデオ講演会に参加させて頂き、到底一日とはおもえない、濃密でありはかりしれない時、これからの人生を考えます。
存在論では、はじまりから「問うこと」を伝えて下さり、いつも先生が問うてくださり、人間とし自分で考え、答えを出して生きていけるようにして下さっていることをあらためてわかります。そして先生に問うことの出来る場面をつくって下さっていることはどれほどの恵みであるか、このたびは「道徳」について質問させて頂く機会を頂きました。「完全にニュートラルになれるか?」とのお話から、先生にお聞きしたいことがこみ上げてきました。先生が、生命と一体化している「死霊」や取りついているもの、自分ではわかることなく解決しようのないことを引きうけ解放していって下さっていることで、よけいなものがなくなりきれいにして頂いている生命です。が、道徳、倫理、親との関係、常識、専門意識など、、、自分自身に身についてしまい縛っているもの、枠をつくってることをどのように自覚し変えていくのか、ということがありました。道徳も偽善だらけとしたニーチェのことから、真に生きられるように学ぶこと、母親から生まれてきたことはほんとうでも、生きてる状態は良心、気持ち、本音からは嘘、偽りであり生命に背いていることをお聴きし腑に落ち解けていきます。先生が応えて下さる瞬間瞬間、どれほどの愛を経験させて頂いているのか、、、生命から涙があふれました。
「死について」で農業やデイサービスのことからこれからを考え、大事ないのち、「いだきで生きる」ことを受けとめます。そして、自分のうちに生まれていることは自分がやらなくては消えず、生きてるうちにやり、行動する以外に成っていかない当然のことを受けとめ、自分よりない存在、能力をあらわして、先生、高麗さんに出会い今に在る生命、むくいていかなくては終われないとあらためて感じ、ここからすすみます。
ビデオ講演会では高麗さんの真のことば、音に、さらに自分のうちからあぶりだされるものがあり、申し訳なくも必死に座っている状態でしたが、先駆けて真の存在あらわし、全体がみえ大きく生きていかれる高麗さんと、ともにつくっていく人間になること深く心します。
尊い時をまことにありがとうございます。
天田敬子