いのちがあるということ
私は人の気持ちを害することが怖いので、受け入れてもらえそうなことしか話せません。
感情が高ぶって、思わず本音をぶつけるように伝えてしまった時は、後から自分が消え入りたくなります。
人の顔色を伺うように目の奥を覗き込み、優しく接してくれる人に心ですがる自分が後ろめたく、どんどん沈んでいきます。
コンサートを経験した状態そのままに、日々ありたいと願いつつ、子供のころからの人間関係の癖を続けてしまいます。
そんな状態で向かった盛岡は、すでに身近な土地となっておりました。懐かしい岩手山は、右片側にスッと白い雪の筋をまとい、谷あいの印影くっきりと、凛とありました。
初めて行った盛岡城址では、たくさんのモミジが、赤、黄、黄緑の細やかな葉を、優しい秋の日に照らされ、風に揺れておりました。落ち葉の絨毯も優しく、心が柔らかくなりました。
コンサートでは、先生の音に共鳴する自分の身体に意識を集中し、自分と音が一つであることを味わいました。幸せとはこのことと感じます。
あるとき、銀河鉄道に乗って、マーブリングのように光が煌めく宇宙をぐんぐん上昇する体感に包まれました。
岩手山も、府中の森も、仙台の街路樹も、同じ秋色に染まり、私の中で「今年の秋」という一つの世界になります。
去年は思いもしなかった、今年の秋です。
生きていることが嬉しいです。
ありがとうございます。
高橋 由珠