いだきで学べることへの感謝
いだきを基準とすると、随分と『良いこと』と『ダメなこと』の基準がこれまで認識してきたことと違う気がします。例えば今日(すでに昨日となりました)若い方が仰った発言などは、先生は親御さんもお子さんから習うべきだと絶賛されておりましたが、私の時代だと、、、というか、もし私が同じ年齢の時に同じ場で同じ発言をしていたら、袋叩きにあってつまみ出されていたような気がするのです。似たような発言だったとしても内面にあるものも違い、表面的に似ていても決定的な何かが異なったりするゆえにそうなるのでしょうが、一見変わったことを仰ってもだれからも非難されないどころか絶賛されていらっしゃるご様子をとても羨ましく感じました。新しい時代なんだなとも思うのです。
1ターム目が終わり、『劣等感の裏返しの優越感』と自分の中で言葉になりました。これが全ての人間らしい交わりを疎外してきたとわかると全てに優しい気持ちになりました。劣等感は、後述する男性たちとの関わり含め多くの場面で植え付けられてきたものも多くあると感じます。東大のストーカーの人も、きっと劣等感の裏返しの優越感で生きてきたのではないでしょうか。ちゃんと正しい認識で実態を掴めないと決して人間として幸せにはなれません。
今日(すでに昨日です)自分が発言したときは、時計を見ると感じていたよりも時間がたくさん過ぎていてました。先生の言葉の中で「あなたをいじめた男も・・・」というフレーズが心の空白とかかずらうように残り、でもその時は、「男にいじめられた記憶は無いけど、どうして耳に残るんだろう」と感じました。何事にも感謝できない人間は未熟だとどこかの本で読み、関わった男性には感謝をするように心がけていたためか、自分がいじめた記憶こそあれ、いじめられた記憶はその時スッポリとなくなっていたのだとわかりました。講座が進んでいくと、そのことが気になり始め、講座が終わると、じわり、じわりと、一人、二人と、そんな男性たちを思い出してきました。「いじめる」とは、私を使うことで見たくない現実から目を逸らすことを指すとわかりました。もちろんご本人方は否定することでしょう。そんなのは那由他にいます。思い出せる占い師、音楽プロデューサー、霊能者、スピリチュアル好きな既婚男性などは、体の関係を持った人やお付き合いした人とは限らず(むしろちゃんと付き合った人は、優しい人達だった気がします)、そのような男性らは今思えば私を「ダメな存在」だということにして、簡単に言えば自分のプライドを守っていたと感じるのですが、当時の男性たちはそれを当たり前のことだと思っているので恐らく振り返りも気付きも反省もせずに、ただひたすら夢を並べ行動していました。それがあまりに前向きに見えるので「こんな偉そうなことを言う方が間違っているわけない。きっと私が悪いんだ」と思考します。けっこう、人のことをぐちゃぐちゃにしても、それで当たり前だと思っているのか、不思議と彼らの目からは真相は見えないんです。それらが全く無意識なことを起こる現象からもわかり、考えます。指摘などすればこちらが悪いこととなる経験が長かったこと、それを素直に受け容れ続けてきた過去の自分も蘇り、一見前向きに行動することで直視すべきことから上手に逃げる在り方への既視感と絶望、嫌悪感、怒り、そしてあきらめを自分の中に感じます。あきらめとは、別に、好きにすれば、期待してないし、という感じです。
未来のこどもたち、女性、(男性)の幸せを願いますが、現在の私の判断だと男性の都合の良さをだいぶ当然のものとして受け容れてしまっているので、こどもと女性の真の幸せという意味では使い物にならないと感じました。だから(男性に都合の良いことも素直に受け止めるから)男性に好かれるんだとも思いました。別に好かれるためにそうしていたわけではないつもりなのですが、どちらにしろそれらは未来の無い状態です。華奢なお友達がもしかしたら命すらなくなっていたかもしれなかったと受け止めた内容があったのですが、それを鑑みても、いらない方に加担したらだめだと泣けます。世の中全部そうなので、いだきでないと本当にわからないし学べない内容です。
強制という言葉は場合により修行、修練とも言い換えられ、何もかも面倒といっても過言では無い私には今こそ必要な言葉です。すべてにおいて必要ですが、特にいだきで学べることの喜びをもっと表現することを強制していきます。ありがとうございます。