いしき
16日のオンデマンド最後の日でしたので今ひとたび、と再生してお聴きしました。
「運命愛」ネットで調べるとなんだか頭がグチャグチャになりましたが、先生のお話を聞いていれば何も混乱することなく、すんなり入ってきます。ありがとうございます。
身体に耳をすませても何も聞こえない自分ですが、今日は身体から、耳を澄ます意識が偉そうなんだよ、と言われた気がして(気がするだけでほんとに聞こえたわけじゃない)、上から目線の意識が問題なのか、と頭が上についていることが間違いかと、頭を下につけた絵を描いたりしていました。いくつも描いていると花になっていくのが、不思議でした。
今日は夕方、コロナのおかげでつながった方々とzoomでお目にかかれてフランス、イギリス、日本とつながって楽しいひと時過ごしました。分断社会のようだけど、どもまで行っても人はちゃんと繋がりつくっていけると感じます。ただ深さの問題になると、いだきがなければ不可能、ですが。
いまは まだやたらに言葉にできない雰囲気ありますが。しかし、不思議の人類、不思議の日本人、無意識のうちに、、伝わって 繋がって いのちは動いていく気がする。
昨日は超久々にフリースクールに行ったのですが、教室のあちこちにビニールが垂れ下がっていて、なんだか分断されてる感じでしたが、もともとコミュニケーション苦手の子たちなので実はあまり影響なく、ビニール関係なくちかづいてくる子はしっかり近づいてくるし、話を聞いても もともと不登校の子たちなので学校行かないことが通常状態ですから、本人感覚では自粛生活といっても通常通り過ごしたみたいです。拍子抜け。
子供の心配するよりやっぱり大人自身が 私自身がこれから どうするか だけが問題。
たまたま朝読んだ大塚ひかりさんの源氏物語についての本に、誰かの身代わりとして扱われた女性たちのこと書かれていて、他者は取り換え可能だけど、自分自身だけは取り換え不可能なのよ、と書かれていて、あらためて目を見張る次第です。
私にとって取り換え不能な私、生命から生まれて最初は大したことない生き物、未完成生物だったけど、豊かに豊かに育まれて、どんどん育まれて、意識なるものが生じるほどに育まれて、誕生したのに、あれ、意識から出発?教育されて? いのち忘れて? 目的中心、能力中心に考えるなら代替えありの方が効率的。代替え可能な能力は 世の中では「使える」「使いやすい」とても良い能力。能力がいつの間にか自分自身を決定していて。
でも自分とは 能力なくなってもあるもので。
病気になって動けなくてもあるもので。
自分にとっては代替えできない自分自身。
一筋縄ではいかない自分自身。
生命の前に頭を低くして。(頭、消すくらいがいい)
聴く。
本当はずーっと何かしゃべってくれているのにわからないこの意識(頭)で申し訳ありません。
明日も聴きます。
あちこち意識が脈絡なく飛んでるような文章書いて恐縮です。
余計なことばかりするのはなぜでしょう。
身体の反応としてつい余計なことするのです。
なんだか遊び足りなかったのかな、子どものころ と考えたりもします。
思い切り遊びたかったのかもしれません、思い切り外れたかったのかもしれません。
この社会から。
でもいだきからは外れたくありません。