KEIKO KOMA Webサロン

いきながらにしてうまれかわる


 私は、4歳の時に無熱肺炎をおこし深夜に病院にいったところ朝までもつかという状態で、朝まで家にいたら手遅れだったということがありました。その後、小学生の頃から喘息になり、通常期はほこり注射をうち免疫力をあげるようにし、発作がおこると入院したりして苦しい思いをしました。空気が吸えない苦しさ。もともと好きではないこともあり、運動はあまりできず、体重は増えるばかり、小4で40キロ・小5で50キロ・小6で60キロ、高1で80キロと順調に育ってしまいました。小6のときが一番大変で、医師は棚の一番上にあるボスミンというアンプルの注射をして手当してくれたように記憶しています。その時、これは強い薬なので打ち続けるのはよくない、つまりこれを打ち続けて最後は亡くなってしまった子供の患者の経験があるというようなことを話していました。余談になりますが死にそうになったのは、小4の時クラスで地元の海にいったとき私は溺れ(自分では溺れているのがわからなかった)友人の尾上崇君が手をぐいっとひっぱってくれて助かったことや、妻と結婚前それとは知らずハイグレードコースの鍋割山に登り帰り道で獣道に迷い「この先危険滝」という看板で日が暮れ当時携帯もなく、これで山で餓死するのかというそのとき、もう一人川崎から1人で旦那を振り切ってきたおばあちゃんも合流し、とうとうもうだめかと思った今度こそそのとき、地元の山菜取りのおじさんが私たちのいる獣道をたまたま通りかかり、「何しているの」といわれ、実は道に迷いましたと答え、「今度から気をつけな」といいながら、獣道を抜け、最後は自動車で渋沢駅まで送ってくれた経験があります。その山菜取りのおじさんは、最後まで名前を明かしてくれませんでした。この3つの事柄は、いまだに自身も生かされているなと感じることがらです。
 そのようなこともあり自分が医者とかになって苦しい喘息を根本的になんとかすることはできないものかとも考えましたが、高校2年の秋の中間テストでは勉強に手がつかず物理がゼロ点であったこともあり、進路は文系に変更することとしました。英語・数学1・国語で受験できる私立の経営学部を目指すこととしました。
 なぜ経営学部かというと、事業や商売がよくなるもとを学べたら、企業のお医者さんのような感じで、これは人間の人生のいきかたにも応用できるのではないかと考えたからです。ここをてがかりに逆に喘息などといった病気等もよくするこつもあるのではないかという発想。さすがに高校時代頃になると喘息の症状は出なくなりました。いままで義務教育で監視され、まずはテストのことを考える偏差値のことや、内申があるので品行方正でいないとまずい、ということから解放されたからかもしれません。
 しかし今度は、みえていた感じのこっちでやればすっとおさまるのに、あるところに属しているとあっちをやらないといけないので、こっちの芽をつぶさないようにあっちをやるということの我慢がだんだん限界にきていたころかと思います。こっちがなんなのかまだつかめていないし表現もできませんでした。
 経営学のほかに、例えば、占いなども気になりましたが一部は統計学の世界のようなところもあり、また、干潮や満潮時で傷があるときに出血量が違うというようなこともあり気にはなりましたが、こういった大自然に立脚しているような全体を学ぶ学部があるのかということも当時は知りませんでした。いまでこそ仕事でお客さんと接していて、わからないひとはわからないことがわからない、お困りの方はお困っていることがわからない、悩み方もわからない、なので解決の方向性もわからない、ただ不思議なことにお客さんは問題と答えを話の中一緒にしゃべっていくので、ここで、お客さんがどこからきて、今ここにいて、どこに行こうとしているのかを雑談のなかから聞いてメモに書いて整理整頓してみると、ある瞬間目がピカッと光りお客さんは自分で自分をつかんで気づいていかれます。すると、すぐにでもおうちにかえってそのことをしたくてたまらなくなり、次回お越しの時は、成功者のように手柄話を楽しそうにしてくださるという経験をたくさんしていますが。
 経営学部の背景はこのようなことがあったからかもしれません。小学4年の暮れの夜7時頃、家族7人でほぼ1年かけて育てて収穫したみかんが、出荷先からトラック1台ごともどってきました。みかんが余っていて1キロ1円でも取引できない、ジュースでも買い上げできないので、捨ててくれということでした。仮に捨てるのであってもお金が必要だし、今日にいたるまでの肥料やその他さまざまなことをしてきたのに、子供ながらにとてもやりきれない思いをしました。また、中学1年の6月か7月頃、政府の役人のような方が我が家の田んぼにこられ、お米が余っているので、ここの半分を青田刈りするようにと命じました。田んぼも、親父の国鉄のボーナスをやりくりしながら肥料や機械などを購入し、かろうじて家族7人で多くの手間暇をかけて力をあわせてやっていましたので、こういうことが起こるのは、人間の生きる世界で何かがおかしいのではないか、いやそれとも自分のあり方がちがっているのかもしれない。そのよりどころとなる正しい考え方をはやいうちに身につけないといけない、いずれ私がこの家をやるようになったときにはさらに時代も変化しており、もっとみかんやお米をやり続けることは厳しいことになるのではないかということがあったと思います。
 私は、高校生であった当時、なぜ教師は教えられないのだろうと考えていました。優秀な教師なら、教えたら片っ端からみんな体得し、テストは100点、教えたことが人生の肥やしになる状態が普通なのではないかと思っておりました。その時は、おれがバカなのか、教え方が悪いのか。後にこの一つのモデルとなるのが、既に書込みさせていただいた、日比野君大量生産。大学時代の家庭教師で、中3の12月にクラスで35番の日比野君が2か月後には5番、その1か月後には高校の学年で1番、と自分や家族の人生がまるでかわってしまった例。
 もとに戻して、私の高校当時は、ほとんどの学生が高3の授業はわきにやり受験勉強を主体として現役合格を目指していました。ですが私は真っ正直に、けじめがつかないのもいやで、高校の勉強は最後まできちんとやったうえで大学受験にどこまで通用するのか、ということですすめていました。結局1年浪人し、その後、法政大学の経営学部に入学することになりました。高校時代の私の評定平均で明治大学の経済学部に推薦で現役合格した同級生のことを考えると、自分はなんでスマートにいかずまわりくどいことばかりするんだろうと思っていました。
 ちなみに、この法政大学の経営学部も、受験勉強はほとんど数1しかやっていない私が、浪人時代あまり好きでなかった台数幾何を何の気なく夏期講習で余分に受講し、その時の小島先生の授業がわかりやすく素晴らしい講義をしてくださり感動し、何度かその感動する解法を勉強していたら、たまたま法政大学で全く同じ問題が出て、幸いにも合格したというのが実情です。
 大学入学後は、素朴な疑問として、経営の本はごまんとあるのに、これが本当に機能するなら、みんな社長や大金持ちになっているだろうにというのがありました。だけれどもいわゆるフレームワークは学んでおかないと土俵にものぼれないということで、まずはきちんと基礎的な事柄を学ぼうと考えました。親にも申し訳ないので成績もきちんとするようにし、結果は学生時代トータルで1つだけBであとはAの判定、成績で出る奨学金ももらいました。
 このとき疑問だったのは、私がサラリーマンになってアホな上司だったら人生棒に振るだろうということ。つまり、優秀な上司なら教え方が上手で、部下の私はたくさん営業でもなんでも結果を出し、お客さんも会社も上司も私もハッピーで自分の人生を費やすにむだのないことになるけど、そんな人めったにいない。そうなると、会計の資格とか取得し独立できるようにしておかないと、アホの上司に自分の人生が巻き込まれてしまうということでした。加えて、私のような発想をもっていること自体がサラリーマンの世界では疎まれるだろうとうすうす感じていました。
 ということで大学に行きながら、会計の専門学校へも入学。大学時代は1年休学もして集中的に専門学校に通い学生時代での資格取得を目指しました。かれこれ都合7年位専門学校へ通いました。仮に、会計の資格が取れた後は、当初はその資格でサラリーマン勤めを経験してその後独立する、そしてどうも納得のいかない専門学校の講師となり、またもや日比野君大量生産、つまり楽して点がとれてしまう上に実務から導出される事柄を基盤とする手に取るようにわかる教え方が伝授できないものかと考えていました。私のように金と時間と人生を大量投入するのではなく、多くの受験生が身につきながら短期で合格するようになれば、いきた時間が増え、当人も社会もよくなるのではないかと感じていました。しかし、長丁場、プレッシャーなど、いまでいうからだを中心にものを展開するのではなく、もっと大きな次元転換をおこすことのもとをなんとかするという無謀のようなことばかりを考えおいもとめていたので、次第に胃がわるくなり、からだの全体のコントロールがきかなくなっていきました。
 そんな時、会計の専門学校の先生で別料金でなぜかα脳波術を教えてくれるかたがいらっしゃり、効率的なWスクール生活のために申込をしました。まずは、最初の状態の脳波を測定することになり、電極を頭につけました。最初にちょこっとβ派が出て、すぐにα波になりました。また間もなく次の段階の波長が出現し、最後までその状態が続きました。結果は、3つ目の波長はθ波といい、先生がいうには僧侶が瞑想状態にはいったときに出る波長とのことでした。10回コースでしたがこの1回でいかなくなりました。α波をだせるように訓練する講座であるのにθ波が継続的に出せるようだし、これから何をどうするのか先生自身も悩んでいた感じが感じられたからです。しかしながらいまから思うと貴重な経験です。
 大学は卒業しましたが、体調がすぐれないまま専門学校に通っていましたが、一旦試験勉強はおいて、測量のアルバイトなどで野山をかけめぐり、調子をとりもどすことをしていました。そのうち、会計事務所の募集があったので2件応募をし、2件とも合格し、自宅に近いところに就職しました。そこは、ご主人の税理士さんと奥様と従業員10名位の事務所でした。ですが、なにしろ業務を教えることができず、職人の世界と同様見て盗め的な感じのところで、おまけに中卒程度の給与で、かつ、長老の女性からつるし上げにあい、1年おりましたが、たまたま、会計関係ではありますが、記帳の仕方を教える団体が1名職員を募集していたので、そこに、転職することとしました。
 前の会計事務所は約10名の職員で顧問先が計176件で私の担当件数は17件でしたが、この団体で私は1人で月に220件の記帳指導を命じられるところからはじまりました。その後組織拡張(営業活動)や広報活動を含めた事業運営、新規事業のサプリメント開発なども経験しました。きちんと手にとるように教えることができお客さんのお得や成長につながることがちゃんとわかるようにお話できるとむしろお客さんのほうからそれくれとサービスをお求めになることや、組織が成長するように事業をつくりマニュアル(つまり脚本/観客に対して出番の職員が意気に感じるストーリーを時間とともにわかりやすく文字や表にする)をきちんと描いておくと予想以上の恵みがもたらせられること、協力してくださる関係者(サポーター)へお客さんの幸せをつくる真意をきちんとお伝えするとこれまた凄いマンパワーを結集できること、経理がきちんとできると経営がよくなり経営がよくなるとそれが経理として結果が出てきて相互に好循環となること、またそのもとは受容共感ケアを旨とする対話であること等を学びました。
 記帳指導がおわり決算書が綺麗になるとけっこうな方が「光が見えました・正月がきたみたい」とおっしゃったりします。お会し指導前におそらくおっしゃるだろうなと感じているとやはり「おれ死のうと思う・死にたい」とおっしゃるお客様、ぼちぼち記帳指導をして終わるころになると「おれやっぱり死ぬのやめた。なんか元気でてきた。」とお帰りになる方も最近多く見かけられます。自分のビジネスであることの中で失敗をおこしてしまい違約金を払わなければならない人がお越しになりお金や法的な筋道をたてながら記帳を指導した後、次回お越しの時にはいろいろ解決したようで「あなたにあえてよかった」おっしゃりよくはわかりませんがその女性はおなかの中から光を発している人、そんな光もっているなら最初からその力でなんとかしてくれよと思いますが・・・、様々です。
 私も、私の前に座ってみたい、と思うことがあります。しかしこれは、私が講座やコンサートで先生の前に座って経験をさせていただいているからこそ可能なことであり、実は私は先生の前に座っているのです。
 こうして、私は、泥水に私も一緒につかる、そこから一緒に私とお客さんの解決の道を毎回ゼロから編み出すといった感じです。こういう現象がおこるのは、お客さんがこういった接遇を受けたことがなかったからなのではないかと思います。親や夫(妻)や子供、友達、地域から。おそらく一生受けられなかったかもしれない接遇で魂が満足しているようにも感じます。ですがこちらは、家に帰るとべたべたで、特にコンサートの翌日には綺麗な体が、お客さんはその気はないかもしれないけれど、損してはならないと貪るようにとっていくような感じもあります。ついつい翌日肝臓が疲れちゃうことわかっていても、自分の回線を切断するためにお酒を飲んでしまう。そうでないと、そのべたべたで眠れない。例えば「あいつ殺してやる」といいながら、当人のいのちがほぼぶんどられているような人、会う前からやばいのはわかっていて、さらに私自らが始末書を書く映像までみえていても、目の前で倒れている人をほっておくわけにもいかず、助けちゃえばこっちのものと行動し、逆にそのことではめられたりもしましたが、単に自分は未熟であったとしか言いようがありません。
 また、目の前にいらっしゃるそのお客さんの亡くなったお母さんが「私はこの子に愛を教えられませんでしたのでなんとかしたいのですが・・・」とか、別のお客さんでは亡くなったお父さんが「私はその道の第一人者でしたが血液製剤の関係でマスコミにたたかれるようにして亡くなりましたがどうかこの子がこの子を貫けるようお願いします・・・」とか、私の祖父の弟子で亡くなった僧侶が「私は死んでいるがどうかこの子を受講させてやってください・・・」など、死んでる人は時間や空間は関係ないようで、私の背後に解決の光がみえるからなのでしょうか、すぐに「それを頼む」みたいなメッセージを伝えてくるような気がしてなりません。でも、残念ながら目の前の当人はわからない。好運にも受講されるかたもいれば、受講してもそれっきりの方もいるし、申込はしたが辞退する人、断る人等様々です。
 先日は、なぜか何度も頻繁に我が家にお越しになる方がいて用事も済んでいるにもかかわらずなかなかお帰りにならない様子でしたので、たまたま焙煎したてのラブアンドピースがあったので一緒に飲み始めたところ、どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、その日に急遽空いた講座の1席を自ら即座にお申込なさいました。
 私は累計でいうと何千何万もしかしたらそれ以上の事業者に会いその方の生きざまが数字で表現された決算書を拝見しています。同じ人でも毎月変化していきます。同じ人の場合は成長が手にとるようにわかります。お越しの瞬間、演技しているかのように見かけ上のがっかりをがんばってしている人でも、決算書は嘘をつかないので決算書に力があり光っている状態。そういう場合は、おじいさんは山にしばかりに、おばあさんはかわにせんたくに、すると「桃」でしょと、出てくるように、決算書の感じを精確にお話しするとご当人がしゃんとして決算書と同じ状態になっていきます。その逆の方など様々です。同じ看板の蕎麦屋さんでも人が違えば全く異なる決算書となります。とりもなおさずその人の生き方そのものだからです。
 最近顕著なのは、どうも、新しいゾーンのビジネスであることを私に言って欲しい人がお越しになるような気がします。そういう人が同じ日に重なってお越しになります。いうなれば、世間一般にある埋もれた蕎麦屋ではなく、どういう特殊性をもってどう世の中をよくでき自分も幸せになるあたらしい蕎麦屋であるのかを浮き彫りにしてもらいながら、自分でもそれをつかんで帰りたい、というようなおもとめです。幸いなことに、接遇しているうちにただひとつの道が感じられるので、いくつかある指導の中から選ぶというのではなく、そのプロセスのなかで迷子にならずにおもとめのところにいきつくような気がします。ありがたいことにあたかも答えや解決から出発する記帳指導のような感じです。
 今の仕事をしてから26年にもなりますが、このところ、復活支援金のお手伝いをしていました。お客さんは、家にパソコンがない人やあっても復活支援金に該当するのか分厚いマニュアルをみてもさっぱりわからないし、たとえ該当したことがわかったとしても自分で入力すると本当にその入力でいいのかわからなかったりして不安になります。ここでも、どこからきて、今があり、どこに行ことしているかからはじめていきます。なぜなら、入力事項は帳簿等から引っ張ってくる数字だけではなく、自身の商売がどういう因果関係で影響を受けたのかを言葉で記入するところもさりげなくあるので、お客さん自身のこと「生きざま」をそのままきいてできるだけ素直に文字にしていくからです。すると、お客さんは自分の人生を俯瞰するようで「自分もまんざらではない。がんばってやってきたんだなあ。自分は自分の目をみることはできないけれど、自分ってこんなにいいやつなんだ。」ということをつかむと、やおら元気が出てきて、さらには「自分がそうならこんな風にこれからマーケットと対峙していくか」ということを思い浮かんだり、胸張ってお帰りになったり、大の男や気丈にふるまっている女性が自身の表現を文字にするのを見たり聞いたりして私の目の前で目に涙をうかべぽろぽろ涙の雫が流れているお客さも多くいらっしゃいました。支援金という「物」だけでなくアファーメントや応援といった「心」もともに満足するようで、再度お越しの時は、本当に心や魂から深々とお礼を述べに私の席までお越しになります。まさに復活。また凄いのは、そのときに、そのお客さんを担当している職員までもお客さんのことであるのに自分のことのようにともに喜び私にありがとうを伝えてくれるのです。ありがとうのシャワー。このことがなければなかったはずのありがとうが空間に充満し、おそらくたとえ私が死んだ後でも響きわたっているような気がしてなりません。こういうことがたくさん堆積していくと、いつしか世界平和は成るのではないかとも確信します。
 かつてよく考えていた招き人間構想。よく、会社などでは「招き猫」は縁起をかついで買って置物として置いておきますが、これと同じバージョンで、いるだけで会社がよくなる人間の状態はないものかと考えておりましたが、実験ばかりしてたんじゃあだめとのお話もありましたが、学生の頃からの問いとそれを凌駕する状態、そして6月23日をもっていきながらにしてうまれかわれる感じ。どなたからか、力士は横綱の胸をかりて強くなっていくとお聞きしたような気がします。いだきしん先生にはいつも遠隔コーチングしていただいているようで本当にありがたいことと感じています。
 平成20年4月その時がやってきました。私は結婚の時に、妻は1度私の命を助けると感じていました。平成10年の結婚から10年が過ぎようとしていました。会社のトップがお金や関連企業の職員女性(妾)の関係で失脚し、このままではいけないので自分を変えるために富士山の樹海を駆け抜けるような研修でもなんでもいいから受けなくてはと考えていた時期です。妾は花屋をやっていて、その花屋の売上をあげるために私達職員が葬儀の受注拡大をするための仕組みづくりと手伝いをさせられていました。夜間携帯電話で葬儀を受注し葬儀社に取次、翌日当家に顔を出し葬儀の花の注文をとり、通夜で花の準備を手伝い告別式後の片づけとお花のくるみまで、その後初七日や四十九日のお花、盆暮やお彼岸のお花、1回忌3回忌等の法要のお花、そして準確定申告や相続までつなぐシステムでした。その妾は、担当者をどんどん吊し上げて首にするもんだから、とうとう私にお鉢がまわってきた。私は、年10件ペースを広報チラシ作戦や各提携葬儀社の内覧会開催企画により、年30件にまで引き上げましたが、たびたび私をつるし上げ、ある時は3日か後にせまる葬儀社の内覧会で既に80名の参加予約をもって万全の体制でおりましたが、業務で種子島に研修旅行の添乗引率者として出張していたときに、私の携帯電話が鳴り、妾から、あんた、今どこにいるの、そんなことやっている場合ではないでしょ、今すぐ帰ってきなさい、とわけのわからないお叱りの電話をもらうのは日常茶飯事で、私は当時怒られすぎて、妾の気分が悪いと6時間も立たされて一方的に怒られ血圧があがってしまい、とうとう血圧の薬を飲むまでになっていました。この妾も同じく失脚した時です。
 妻は、私の分のいだきアントレプレナー講座を無言で先に申込んでいてお金も払っていました。このことはいまだに凄いことと感じます。妻は、ただ、この講座の日程なら会社を休まなくていいのでいってきな、と一言いいました。私は富士山の樹海でもなんでも自分がかわるものならばと思っていたのですんなり受講をさせていただきました。今思えば、このことが妻が一度命を助けてくれるそれだったのです。私が申込む前に申込んでくれた妻の感覚、助けてくれることを予感していた私の感覚、本当に助けてくれた先生や高麗さん、これが人の出会いのすばらしさなのでしょうか。それから12年後、妻はアンフィニでのアントレに行くときに私に「なぜ会社であいかわらずいじめられるか聞いてきなさい」と言われたので、そのように先生に尋ねると「そりゃ家で奥さんにいじめられているから」と返事をいただきました。それを帰って妻に話すと「あなたみているといじめたくなるのよ」で終了。
 6月23日と迎賓館を終えて。迎賓館後段では姿勢を正すようお話され、まさに姿勢をただしてお聞きするといままでの状態とは一線を画した体感があります。そんな中で、ひとがいい自分をうまれてから演じていただけで自分自身を疎外していたのではないかということがわかりました。ただ、さみしいから役に立つふりをして余計なおせっかいをしてきたのかもしれません。加えて、疎外され続けているからフォローし続けてきたのかもしれません。まず自分をどう運転するのか。なかなか自身がなっていかない状況で、前にも書きましたがお客さんを見ていると、真の自分は何者かがつかめ、シンプルにわかりやすく表現できるようになれば、案外サービスは売りやすくなるという感じがあります。また、いだき講座受講後、かわった(もとにもどったというべきか)からだの状態で進めば爆発的な人間パワーが生み出されるにもかかわらず、頭は古いままなのでいままでのループから抜け出ることができないのは、先ほども申し上げたように、自分の運転の仕方に問題があるのではないか、そうすると、いだき受講後の自分の取扱説明みたいなものをつくれないものかと考えていたことを思い出します。
 ある時は、人間魚拓。大きな和紙の紙に、自分に墨をぬって表と裏をぺたっとやる。するとそこから微妙なところが浮き彫りになる。あたかも、自分の口の周りにご飯粒がついていてもわかりませんが、鏡をみると、ああご飯粒がついていてみっともない、とすぐにとれる感じです。さらに、どなたか業者にでも頼んで、24時間自分をビデオ撮影すること。起きている間でだけでなく寝ているときもそのまま動きも含めた動画で自分を見ることで、自分はどう行動しているのか、無駄が多く見ているのが耐えられなくなるかもしれませんが、やろうとしていることの行為の表現の仕方がたどたどしいだけでちょっぴり工夫するだけで流れがかわる場合などがみつかればむしろ案外自分がいとおしくなる感じもあるかもしれません。
 また中心と視点ということも考えていました。中心は、つまり分度器で1度ずれると1000キロ先では全然違う場所に到着してしまう。視点は、富士山を遠くから眺めるのか、5合目から見るのか、飛行機で上空から見るのかによってとらえる感じが違います。また自分がどういう状態であるかということもあると思います。先生がいらっしゃるときにこうして自分を書きおこすことができる幸いに感謝申し上げます。
 会社で起こった様々なことも、今そのことをそのまま書きおこすと、何一つ矛盾がなく、ひっくりかえっているだけであることがよくわかります。まだ未熟ではありますが、この度他にもいろいろ書きおこすと、先に書こうとすることがらのもとが飛び込んでくる感じがあるので、ぼつぼつやっていた以前に比べると便利な時になったように感じています。
 そんななかでも、いままでいだき講座とは、について自分の文字や言葉であらわすことができていませんでしたが、今の私の状態での表現ですが今回文字で書きあらわすことをしたところ、書き起こした事柄の中心のパズルがびしっとおさまり、光輝く希望のキャンバスと変わる経験をさせていただきました。
 大変恐縮で、おめでたいとしかいえないのですが、おととい、先生が私の部屋にいてくださり、にこにこしながらよくがんばっているねぇと、お言葉をいただいた「夢」をみました。
 愛ある人生の実現に歩んでまいります。ありがとうございます。

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