いかに生きるかを問い、変わる
完璧で美しく優しい究極の場を体験すると他の選択肢を取ることが理解できないと至ります。東北センターでの年内最後の存在論と応用コース、ビデオ講演会は涙ぐむいのちの場であり、宇宙のなかでの人間とは何かを教えて頂ける世界最先端の機会であり、参加させて頂き誠にありがとうございました。
問いについてのお話しでは、いかに問うか、何を問うかを再認識させて頂きました。無くしたいと考える事についての問いはコインの表裏のコイン自体であるので、考えてもコインは無くならないと理解しています。そしてなぜを問うて答えが出ないことは問うてはいけない、答えがでない問いに答えることもできず、答えが出ないということを答えなければいけなくなると知り理解しました。ではいかに問うか、何を問うかは、いかに生きるかの問いが重要であり、毎日書かないと小説家ではないお話しから体に芯が入りました。毎日できない、毎日やらない、毎日やり切れない自分の状況から変われる生き方です。気分で物事やる人間と何かできるかと問うと何もできるはずはない。やるときは一時的に気分でやるが、気分でできない時はやらない、できない。口だけ、口ばっかり、口うるさいのは聞いてられないし見てられない、見たくもない、目も当てられない。こんな人間として生きたいはずはなく、生き直しするしか道はなく、やるだけです。そして人間は、健康でなくてもお金がなくても、いかに生きるかでおおいなるはたらきを受け、体は劇的に変わっていくことをご体験からお話し頂きましたことは分からなければいけないです。何度も何度もお話し頂いてます。また人間の内面に宇宙は存在し、もしくは宇宙にふれていて、その人間の最大の変化はいつだったのか。海から陸にあがる時の変化であり、母の胎内で経験していることを知りますと、人間は変われる生命体であることを自覚します。
対象化のお話しでは、自分の実存さえも分からないのに他人のことが分かるはずもないので、他人を対象化して見ることはできないし、見るべきでもなく、見ることも失礼であると理解しました。それでいて自分の実存さえも分からない自分から、本来性の自分、自己を超越した存在に出会うことに近づけるように向かういのちは輝きを感じ、生きる希望を抱きます。また、対象化して見てはいけないのに対象化して見てしまう人間の目はなぜ有るのだろうかとお聞きしますと、見るためとのお答えも良く分かりました。人間が生きるために環境から見て判断したり、外敵から身を守る為に見ると分かりました。また美しい女性を見るときに見てはいけないと考えるのも不自然で、自分のもののように見ることが失礼であり、自分のもののように見られたくないとはどちらの側の立場でも理解できました。目と言いましても心眼と言われる目から生まれ表現されるものがあることも知り、分かっていけるように今日を生きます。
場・フィールドのお話しでピアノの上で恋したらいいとは何て楽しくてロマンティックな比喩と感じました。そして場を分かるといだきのことが分かり、場が分からないといだきから離れていくのではないかと感じ考えました。実現したい世界に最短で到達できるように向かうのであれば、場が分からない人は相手にしてられないし、自身も場が分からないと場に存在できないので、場を分かり、全ての人間関係を取捨選択していく、取捨選択されていくことは当然と自覚しました。
いのちは愛にふれ会場を出ました。東北で再会するいだき講座をともに受けた方々とお話しするひと時はまさに充溢のひと時でした。ひとひらの雪が音もなく舞い降りてくるような心澄まさずしては聞き取れない静かなピアノの音という高麗さんの表現を改めて内面で感じさせて頂きとても幸せです。そしてなぜ出会ったのかと分かり生命躍動する東北の方々とのお話しは歴史の大ロマンでした。出雲から東北へ向かった蝦夷と九州へ向かった隼人と教えて頂き、同胞が再会している関係と知り、優しいいのちに触れているだけで涙します。
夜からの移動の時間に体の感触が気持ち悪く、被り引き受けている体感と分かり、もはや毎日のことです。ビタミンCをはじめ、腸、体に必要なものを食べて飲む、寝る、掃除する、歩く、毛穴の中までお風呂で綺麗にすることで解決していきます。いのち休息する温かい大地から三鷹風のホールコンサートと狛江高句麗伝説、神と通じるパイプオルガンの京都コンサートに向かいます。参加するのは当たり前に、満席に向かう為に結果を作る実存に向かいます。いかに生きるかを問い、変わります。高麗さんのお話しの中で、言われたら午前中には済ましてしまう王の動きを知り、そのスピードで物事やっていけないと生きていけない、ついていけない、変われないと再認識もしました。やれるようにやるだけです。尊い人生をありがとうございます。