KEIKO KOMA Webサロン

ありがとうございます。


盛岡応用講座、聞かせていただきました。

世間からの同調圧力。最大の敵です。

ずっと世間に怯え、不安と心配を抱えてきました。死ぬほどの恐怖です。そこから外れて生きることは、ひとり砂漠に取り残されるような、大海に放り込まれるような感覚になり、とても生きていけるような気がしませんでした。

実際、私が溺れても、世間は助けてくれないでしょう。助けてくれるのはきっと仲間や家族、身近な大切な人です。

なぜ、世間にここまで気を使うのか。

それは、自分がどう生きて、どう死ぬのか、生と死のことを、誰のことでもなく、他ならぬ自分のこととして、本気には考えていないからです。

だから、世の間、ただこの世のあいだだけに幽霊のように存在するものに頭をとられているのだと思います。

世間とは、ひとつの縁なのだと思いました。
嫌な仕事も、そこの仕事を辞めるとなったとたんに顔もスッキリ身が軽くなるのは、その縁がなくなるとわかるからです。

欧米人は日本人にくらべ、物怖じせず、堂々としていて良いように見えますが、それは、信仰的な理由でそうしているからで、彼らは世間の目ではなく神の目が怖いからだと聞いたことがあります。いずれにしても人が見えないものを恐れるのは、これは生物的な防衛本能によるものなのでしょうか。死を理解していないからなのでしょうか。

いずれ死ぬ身体を持って生まれて今を生きる私とは、いったい何なのか?私が理解をしていません。

生きていることもわからないし、
死ぬこともわかりません。

過去から、先祖代々から、親から、周りから受けたマイナス因子をなくしていただいたことはわかります。これから本当の自分で生きて、やりたいことを実現して自分を表現して生きることが幸せなのもわかります。それでも、生と死の意味を理解することが私には難しいです。宇宙がなぜ誕生したのか考えるのと同じくらいに理解が難しいです。

他ならぬ自分自身のことなのに、そのはっきりとした理解も答えも掴めずに、自分を知らずに生きていて、自分の正体すらわからないのに、敵の正体がつかめるはずもありません。

生きているということは、身体がなければ出来ないのに、この身体に対する無頓着さが、自分に対する無頓着さに重なります。身体があるうちは、身体でできること、この身体の能力を活かす道しかないのに、誰の身体にもなれるわけがないのに、どこか他人に憧れてその人物と同一化させようという気でいました。そこをまた世間につけこまれます。

社会活動はあるけど、世間活動はない、というお言葉にハッとしました。そこに勝算があると感じました。

不安と心配をもたらすこの世間もまた、不安と心配、恐怖の中に存在していること、そこにも勝算があると感じます。

いだきしん先生、高麗さん、貴重な時をありがとうございます。

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こんにちは