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あまりに一人一人違うこと


自分の感じ方があまりにもみなさんと違うように思われて心配です。でも書いた方が良いとコンサート中も感じました。書かなくても誰からも怒られませんが、(むしろ書いた方がどこかから怒られる可能性は高まるかもしれないし誰かを不愉快にさせることもあるのかもしれない)吹き飛ばされそうになるのが自分で気付かないうちに起こりやすいこともあり、恥があっても極力意識をハッキリさせたほうが良いと、書き込みはさせていただくことを決めました。自分で決めましたので書きます。最近のコンサートは以前ではクライマックスやアンコールに来たような音が1部ですでに聞こえてくる感じがします。1音目で「逃げるな」とか何かそういう強いことを言われた感じがしました。1回目のブレイクに入るまでの間ですでに最後までコンサートを聴いたような長くそこにいた体感でした。1部では子供の頃にエレクトーンの発表会のあと教室からもらった色々な動物たちが文房具になりパズルのように一つの正方形の黒い箱に収められているおもちゃの中の、何の動物だか、赤い動物、ハサミの役割を持ったパーツを思い出しました。このおもちゃがとても好きでしたがこの時までずっと忘れていたし思い出すこともありませんでした。コンサートメッセージはあまりに高尚で本来難しいものだと思いますが先生がおっしゃるとなぜだか自分もそこにいることを許されたように感じ、ただ、あまりにメッセージとかけ離れたことを過らす自分はなんだろうという気持ちでした。これからメッセージを読み返してわかるかもしれません。2部は「意識」というメッセージでした。意識はないほうが良いんだと思っていました。意識的、意識する、などというとうざったいような、邪魔なような、いらないような感じがします。でも意識がなければ悟りなどもないとは。絶妙だと感じるメッセージでした。わかりやすく伝えて下さることにもありがたいながら申し訳ないとも感じました。世界のことを考える、というお話が頭にありました。最近エチオピアの同業は自分の約10分の1の売り値で働いていると知りグッと世界を近く感じると同時に初めて数字としてそんなに経済が違うんだと具体的に知りました。クラスに貧困家庭や勉強が極端にできない人が居ると自分だけが豊かであってはいけないと思いました。だから一生懸命豊かさを捨ててその人たちと同じ貧乏になろうとしたことも思い出しました。豊かなことに罪悪感がありました。ということはきっとこのあたりが自分の気になるところ、やるべきところなのでしょう。コンサート後半にはよく登場するヒヨコが甘えてきて集中しづらくなったのでヒヨコの方を見ると4、5歳の自分だったので椅子に座ってもらいました。振り返れば1部のおもちゃを手にしてときめいていた頃か、その少し手前です。たくさんの悩みを誰にも言えずボロボロと泣いていました。頭を撫でて抱きしめて、わかってくれる人が現れるから生きるように伝えました。自分を大切にするようにとも伝えると、母と父とおばあちゃんや周りの人たちが元気であればそれでいいので、自分がどういう人間であるとかは実のところ割とどうでもいいと返事をされました。そうかそうかと受け入れたあと、お母さんもお父さんも良い人であるし優しい人たちであるけど残念なんだけどあなたのことをちゃんと見えているわけでないので、あなたはあなたで自分で自分をちゃんと発見し発揮していかなければいけないと伝えると頷いていました。案外自分を生きられないことは、長い目で見ると恨みになるんだよ、とも伝えました。このくらいの話は平気で理解できるのです。一人の人として尊重されないとこんなにも(数十年後?)歪んで成長してしまうんだなと感じました。現代では当たり前に起こることですが、子供を子供扱いしすぎると自分で自分を信じられない大人となってしまうんだなと頭を撫でながらわかりました。自分はいだきに出会い矯正、矯正でなんとかここまで気付きそれでも、まだまだ、どうなんだろうこの我がままさは、と自分で感じますが、同じような育ちをした30代40代、50代でも、そりゃあ引きこもったり乱暴したり、親に迷惑かけたりするよねとわかるのです。大人になれない、大人になる悦びを知れない大人はつらいものです。

自分のプラグが繋がり涙涙のクライマックスで気付けば夢中で拍手をしていました。本当にありがとうございます。メッセージを読み返し理解深めます。

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お茶室にて-2