あたりまえのことが当たり前に
東北センターで感動経験してからの翌日の訪問先で退院後の2回目の奥様のケアに入りました。よく眠り動かない薬指が反応するようになり支えがあればベッドに座り数十分腰を伸ばしていられます。付き添う夫様もできないことができていくたびに驚き奥様に「また来週ね」と挨拶したら「歩けるようになるかしら」とふと言いました。夫様も胸が熱くなったとわかります。「人間は希望があるか生きていくのね」とこの話を聞いた友人が言いました。
帰りのバス停そばの公園の柵に木札をつけている主婦がいました。{大宵待ち草(月見草)、夕方と夜にさきます}「太宰治ですね、海辺でよく見ます」と言ったら「こっちが本物らしいわッはッは!」とうれしそうに返っていきました。木札のそばにこれから開く5センチぐらいの大輪になりそうな背の高い黄色のつぼみがいくつかありました。みんなと喜び分かちたかったのでしょうかとほのぼのとした気持ちになりました。
今日の訪問先のおじいさんは吸い込みが悪い掃除機をやっと最新ダイソンに買い変えてくれましたが調子よく大きな異物を吸い込んでしまい自分が直すといってマニュアルを読んであげると分解してついに取り出してくれました。その子供のような集中力にびっくり90歳だからという見方をしていることに恥じ入ります。何より人の心のあたりまえの動きに反応できる自分になってきていることに気づきます。
うちが変わり内を通わす人間の豊かな関係が増え心通じる社会へ働いていきます。昨夜は友人宅の食事会でジョッパリ一升びんを背負ってきた人がいて皆で味わうこの豊かさはどこへ向かうでしょうかと楽しいです。先生、高麗さん,そして存在ともにしていただけるいだきで生きて皆に愛が生成のときをありがとうございます。感動の日々創造へむかう。