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メリーと青春の玄関


終戦記念日とされた日、1945年、自分どころか父も母も生まれていないこの先の大戦や原爆のこと。学校ではそんなに習わなかったし、いだきに来てから、先生と高麗さんのなさってきたことを知り、日本人である一人一人と当然関係していることなんだとわかりました。お役に立てることは少なくても、知らないまま生きているのではなくて、良かったと感じます。そしてコンサート中とても苦しかったのはコンサートタイトルから推測するに、共感能力に蓋をした自分の歴史を遡ったからではないだろうか。一部で栓をされた内側のパイプから栓が抜けて、縮こまった内面がどんどん緩んでいった。開ききった後美しい光の水で体内のパイプを掃除していただいたように感じ、パイプの外壁すら肉のように柔らかになり、まるで治療を施されているようなのでした。心臓がいつものように痛み、、、いや心臓なのか肝臓なのか、とにかく左の胸が痛く、コンサートではよくこうなる。パイプの詰まりを取り除いていただき、出来事と自分、人と自分を切り分けてきた象徴なのか、3歳でお別れしたいつもの大家さんのおばあちゃんが浮かぶ。いつもの、といっても普段は忘れている。コンサートではよく出てこられる感じがするのだ。父の仕事のあまり良くはない都合によるお引越しだったのだけど、出来れば3歳だからといって、こどもだからといって、なめてはいけない。大人は、きちんと別れの事情を説明してあげてほしい。そうでないと子供は「感じないこと」を生きるための必須科目として勘違いしてしまう。自分と人の間にバンッと壁を隔てることで生きるようになるのは、言わずもがな『共感』を絶つことだろう。二部ではアイツが現れる。『メリー』と呼んでいる。ひよこのようでもあり子熊のようでもある2~3歳の子供だ。このメリーは、いつも私の明晰な思考を奪っていく。とても可愛らしいのだが、甘えたくて仕方ない様子でこちらへ向かってくるので、手が放せなくなる。メリーよ、お前はどうして現れたのか。お前がいると私はなんというかこう、スッキリと前を向けないのだよ。私が30歳過ぎから完全に具体化し、1オクターブ高い声で「メリー、メリー」と発するメリーを抱きながら、演奏をお聴きする。メリーが肩にのしかかると私の成長が止まる。止まらなくても速度が遅くなる。主に左の肩に乗っているのを感じる。確かに最初そういう気配があったのは、小6あたり、母のベッドの上で、であった。最初は漫画に出てきた、王様の嫌いな動物の姿に、「こうなってしまいたいわ」と思った。もっと可愛がられたい、受け容れられたい、そんな欲求が生み出した幻なのだろうか。正体は恐らく知ることは無いのだろう。小5、6年で時が止まったまま。私はメガネをして自分を発見も発揮もできずただ、だらけて、内弁慶で、わがままだ。バレーボールの授業で張り切るリーダー女子達が恐ろしく初めて一人でエスケイプをして駅や海をうろつく。ぜったい無理、無理。おっかなすぎる。体が硬直する。一丸になるとか、私は向いていない。だって自分を封じ込めたんだもの。もともとあなたたちが、〇〇君らが私を好きだということに目くじらを立てるから、こちらは道を譲るために目立たないよう自分の世界に閉じこもるようにしたんだ。敵では無いと下手に出る私には漫画やアニメのキャラがいれば十分。そんな私に、あなたたちと一丸になるなんてできるわけない。私に勝ちたい、その視線に耐えられない。視線だけで負ける。そう、もう負けてるからこっち見ないで、なんでもないから気にしないで。ぜんぶあげるから、一人にして。でも本当は一人は寂しいので、せいぜい手下として使ってほしい。足になります。そんなものだから、当然一緒に戦うのは無理な状態。胸の膨らみ始めた少女達の体操服。行き場の無いプライド。なにも提供できない自分・・・その若さゆえに自己完結した未熟な思考のループは今こうして書いていても青春時代の入り口を思い出してドキドキしてきてしまう。少女時代というのは世界が狭いので、お友達のささやかな言葉さえも真に受けて悩んでしまう。センシティブで伸び伸びできない、なんとも自意識過剰で幼いのだが、本人は至って本気。そんなこじれた思春期の入り口にメリーの種は誕生し、発芽し、今も私を煩わせるのだ。(哺乳類っぽいので種、発芽は適切でないかもしれない。)3歳の辛さには気付いて向き合ってきたけど、小5、6の変化には、認識はすれどもあまり深く考えてこなかった。ここでもすごく、共感する力を、削いできたのかもしれない。自分自身を煤だらけにするのだから、共感どころではない。バンッと、(壁を隔てたときの音のように)小5、6くらいまでのメガネをつけてさえない顔をした自分の顔が浮かびコンサートは終演した。本当は清く美しく成長したかったのに、おばあちゃん、ごめんね。と当時のさえない私は思っている。いだき講座を受講させていただいて、コンサートに参加させていただいて、ありがとうございます。今回の青春の入り口の情景は、2021年の普段はすっかり忘れていて意識にも上がらないことでした。今なお癖を引きずる歪んだものの見方を手放してよりそのままに物事を見れる成長に感謝致します。

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