「存在論」と「死について」
存在論と死についてに参加させていただき、ありがとうございます。
存在者は、物。マイクとか、白板とか。生まれた時から物のように扱われていて、7歳で小学校に行き、時間で物事を動かし、仕事ではスケジュールを立てるのだけど、ただスケジュール通りにやっていることを繰り返していると物になっている危険がある。いつのまにか、自分が物になっていくこと。物は同じことを繰り返し、ループし、壊れたら捨てられる。では、存在とは?存在である人間は、変わりうる。よりパワフルになっていく。存在者と存在のことを理解できました。そして、知らず知らずのうちに物になってしまうこともわかります。物のように、タスクや役割を果たしているだけになると、疲れるし虚しくなります。存在者なら、同じことを繰り返してボケてしまうのも道理です。人間なのに、物のように生きる。概念さえ知りませんでした。自分のことを物だと思っている人はいないと思います。が、自分が存在を表現して生きているか?と考えると、疑問です。高句麗伝説や、コンサートは即興演奏で、先生と高麗さんはどんどん良くなっていくことを身体で体感できるように表現して下さいます。存在と時間を理解している研究者の方が存在を表現できるわけではないでしょう。人間としての存在の表現である高句麗伝説を経験することが、自分の存在を表現するヒントです。
「死について」では、本当の自分とはなんだろうか?今喋っている自分は?と疑問を感じ、質問させていただきました。多くを答えていただき、これからの50年を考えます。怨みでいっぱいだと、そんなのが首の後ろにくっついてくるなら、感情を早く整理することは大切だと考えます。内面が素早く綺麗に生きられる環境はどんどん整っています。先生は、全く違う状態になられたとお聞きし、私も全く新しい生き方で、長く生きたいと考えます。毎回の講座で、質問しようといつも力んでいるのですが、意識がすごく強いのです。参加しているのだから、何か言わなければいけない、と勝手に思いつめています。語る会では、必死に発言します。日頃、表現していることが大切だと考えます。御前会議のお話をお聞きしましたが、先生、高麗さんがいらっしゃる場で表現することは、物事が解決し前進するすごい機会だと改めて感じます。
ありがとうございます。