KEIKO KOMA Webサロン

8/20、21より


一昨日の「死について」への参加前、今の自分では死ぬ直前に「本当は、自分はこうしたかった」と心が叫ぶだろうと想像しておりました。しかし、創造する思考があまりに貧弱で、むしろその思考の扉を閉めて考えている感がありました。このまま、今までをなぞる生活なのかと自問しながらも、暮らしの術が変わることなくありました。そこで、豊かになることに「危険印」が出てくる貧しい日本人とお聴きし、自分の心は本当に貧しいと頷きました。いだき講座を受け、先生ともお会いする機会があり、恵まれた環境であるのに、扉を閉めてきたことが愚かですが、やり続けてきたことであります。気が付けば、齢は重なり、あっと言う間でしょう。「こんな死に方をするために生まれたのか」と身内の死に直面した時に思ったことが、自分も同じになって行くとも考えられてなりません。意識して力むことも、不必要な自責や卑下することもなく、ただ、本心をそのまま出して、楽しく暮らしたいとあります。同じ言葉を使っていることからの脱却は、ひとりでは出来ないことも、先日ある場面で、自分の使っている言葉に対しての話している相手の反応で、またその指摘も受け、ハッとしたことがあり、理解ができます。あり方が、そのまま言葉になっていることを思い知らされ、その言葉は、今後は使わないと決めております。昨日のコンサートでは、武器を待たざるを得ない環境と教育の中に暮らす人々のことを考え、またその背景の宗教の神々のことを考えました。神々の融合とお聴きした記憶から、その神を信仰している信徒間でも融合が始まるとも想像し、その融合の「薬」は何だろうと考えたところ、「愛」と行き着きました。今、コンサートで経験している「愛」が答えで、地球上のすべての方々に知ってほしいと鳥肌がたちながら、座っておりました。しかし、気が付くと違うところに思考が移る自分が度々あり、この場にひとつにおれない状態に、終了した後、申し訳ない気持ちが残りました。その後のビデオ講演会でも、そのお話しがあり、「無我夢中」とお聴きし、そう生活を変えなければと感じます。
ありがとうございます。
田嶋利江子

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幻のコグリョカフェ
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仙台「高麗屋」にて
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