KEIKO KOMA Webサロン

1月17日 ①


昨日、とても貴重な経験をさせていただいた1日となり、心より感謝申し上げます。

まずは27年前の1月17日について書き込みさせていただきます。

当時私は東京在住でした。何故か前夜よりお腹の奥が痛くなり、めずらしく、朝の5時頃まで眠れずにおりました。が、いだきで働かせていただいておりましたので、規則正しく起床しました。朝7時のニュースを付けた途端、神戸の映像を見て足がガタガタと震え、腰を抜かしながらも咄嗟に電話を取り、高麗様がいらっしゃる西宮事務所へと電話をかけ続けました。先生方が3日間の予定で西宮におられる事を知る元夫も、楽器スタッフとしてよほど心配だったのか、数年ぶりに、震える声で「先生と高麗さん・・」と私に電話をしてきました。生き方は違っても、目指す先はひとつでその心は通いました。
「うん、今かけ続けてるから」
と告げすぐに切り、運良く20分後には西宮へ電話が通じたのです。

通常の呼び出し音が鳴った時には、切れない事と、お出になる事をただ、祈り続けました。

通じたようです。

「高麗さーん、、怖かったでしょう、、」
と思わず声が出ました。

「だれ?」
「花木です」

「こわかったーー。」
その御声は今でも忘れません。

お怪我もなく、ご無事とわかり、心底安堵し、電話を切りましたが、すぐに再び電話をかけ続けました。また運良く繋がり、お迎えに行かせていただくことになりました。私の事を自分以上にわかって下さる先生からのご指示は、一人で来るようにとのことです。どのような時も、人のことより考えておられない高麗さんからのご指示は、石油ストーブと灯油を積んでくるようにとのことでした。講座開催日で、受講生がいらした時、寒くないようにとのお気持ちはすぐに察しがつき、涙が溢れました。
ホームセンターの開店を待つまでの2時間半が異常に長く感じました。

今でいう、おおいなるはたらき、としか考えようのない1日です。

当時は故郷の名古屋までの300キロでさえ、運転に自信がなかった。まだ珍しかった携帯電話を持っていたが三重県以西は圏外だった。西宮事務所へは行ったこともなければ地図もなかった。途中養老サービスエリアで分厚い自動ドアに跳ね飛ばされ、後ろ向きに強く転倒し、激痛の中ハンドルにしがみついて運転し続けた(後日、仙骨骨折と判明)。高速道路は大津で通行止め。当時は土地勘が全くない京都市内。コンビニにはおにぎりが並び、同じ京阪神であるにも関わらず、他国での出来事のような空気感に驚いたことなど、挙げればきりがありません。

「ここは絶対に地震は来ない」と誰もが言っていた関西地区に、未曾有の大地震です。まだ私はカーラジオで何が起こっているかわかっての移動でしたが、渦中の人々は何が起こったか知るよしもないかもしれません。スマートフォンはおろか、ショートメールすらありません。連絡手段も途絶えた中、国道1号線の大渋滞を割り込むようにし、突然名古屋ナンバーのランドクルーザーが現れました。ふと降りて、強烈な名古屋弁で事情を話すと「よっしゃ、俺に着いてこやー」と言い、辺りに詳しいその人は、私が困らないように回り道までして先導し、ある地点で、簡単に案内してくれると「気をつけて!」と去って行ったのです。

戦後の焼け野原とはこのような状態かと感じるほど、すべてがぺしゃんこでした。暗闇の中、線路がジェットコースターのように上下にうねっていました。
よく、このさなかで御無事でいらしてくださったと、足腰が再び震えながら目的地を探します。

お聞きしていた“お花のプランターが2個並んでいるマンション”に到着したのは極寒の、深夜1時半頃だったと記憶しています。
ドアをノックし「高麗さん」と小声でお呼びしました。
ドアが開きました。
お待たせした申し訳なさよりも、到着できた喜びの方が勝ってしまい、ニコニコと「着きましたー」と懐中電灯で顔を照らし、間抜けな挨拶をしてしまったことを今でも後悔しています。
「本音で生きて下さい」にもお書き下さっています。お部屋はすっかりと、綺麗に片付けられていて驚きました。日頃お話し下さっていますように、何か起こった時、ただ避難所へ行くとか、助けを待つとかではなく、常に「助ける側」で在り続けるとはどのような状態であるのか。空気と共に今もよく覚えている光景を御手本と受け止め、常に心に生きています。


車の暖房をフル回転しても、お身体があたたまることはなかったと思います。車内での出来事から、先生も高麗さんも、この地域のみならず、日本全体のこと、常に世界を考え、真の道を拓いて下さるのだとわかり、只々感謝よりありませんでした。

帰路、私が全然疲れないとお話ししますと先生は、
「向かっているから」
と一言おっしゃいました。
当時はよく理解できませんでしたが今はわかります。
おおいなるはたらきひとつに、向かい続ける、働くとは、を初めてわかり、経験させていただいた1日でした。

おかげさまで無事に帰京できたのは18日の午後です。

「花木さん、本当にありがとうございました。どうぞゆっくりお休み下さい。」
と高麗さんはお疲れも見せず、とびっきりの笑顔でお声をかけて下さいました。

「はい、こちらこそ、ありがとうございます。高麗さんも。」
とお別れし、まずはお風呂へ入ろうと、自宅へ向かった数分後のことです。

「花木さん、ほんとうにごめんなさいね^^。このあと実行委員会(支援活動)を開催したいのですが、大丈夫ですか?」

「もちろんでございます!」


シャワーを浴び、身支度を整え、府中の会場へ向かうと、大勢のボランティアが集まっていました。「先生と高麗さんなら大丈夫だと思ったー」と先生の横で軽く告げる仲間に「冗談じゃないわよ。大丈夫なんかじゃない」と腹を立てたこと。その人は早くにこの世を去ってしまったことも残念で、鮮明に心にあります。


支援物資の調達、運搬など、先生と高麗さんの陣頭指揮により、すぐさま動きはじめました。そして、「生命感覚を養う」尊い機会、いだきしん(斎藤忠光)先生のチャリティーコンサートを、全国各地で開催してくださり、高麗恵子さんのお手紙から、大勢の方々も動いて下さいました。

四六時中、お休みになること一つもなく、37年前から、いえ、それ以前より、働き続けて下さっておられます、いだきしん先生、高麗恵子様に、あらためて感謝申し上げた今年の1月17日も、特別な日となり、続きをアップさせていただきます。


ありがとうございます。

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