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論理とは?


ついつい世の中の動きについて、トピックについて、どういうことか、どのような立場に立つのが良いのか、先生にお尋ねしたくなるが、一昨日の「応用講座」で、先生は、「興味本位で動くな!」と言われ、自分の都合で解釈し、観念的に思い込むことを注意なさった。しかし、自分では、できるだけ冷静に、外部のことについて考察しようと思うからこそ、分からなくなってしまうのだ。「存在論」でも、「観念でなく、論理で生きよ!」と言われていた。いったい「論理」的思考とはどういうことだろうか。
いま、学校でも、「論理国語」が盛んに言われて、「情報処理力」や「論理思考力」の導入が叫ばれている。入試もその方向に変わっていく。接続関係や帰納法演繹思考、そして、抽象について考えるドリルがたくさん市販されている。従来の読解指導や、文学鑑賞、表記指導の授業が大きく変わろうとしている。でも、わたしは、いったい「論理」ってなにか考えてしまう。接続詞なんて、「源氏物語」なんかにほとんど出てこない。順接か逆接か、よく分からないで語っているし、生きている。だから、日本語で「論理」は語れるのかと思う。外山滋比古氏の『日本語の論理』以来、西洋の「線的論理」とはだいぶ違うものであることも考えると、それこそハイディガーが分からないのも無理はないとも思う。(だからこそ、先生がお話しくださっているのであるが……。)精一杯、論理的に考えたことも、つまらぬ観念でしかないことに気づいたりするし、なにか神との会話力を奪われてしまっているのではないかとも思う。また、「論理国語」が、あまり論理的とも思えない点もあって、ますます混沌となってくる。
先生は、「命を救うべき道筋が論理」と、「存在論」で教えて下さった。言葉を記号論的に使用することだけが「論理」でないことが分かった。しかし、ドイツ語の哲学書も盛んに言葉遊びをしているようで、記号としての微妙なところをついて「真理」に迫っていくやり方なら、日本語の「洒落や秀句」でも可能ではないか。情緒的な日本語でも「論理」を語れるに違いない。どこから「情緒」で、どこから「論理」なのか、そこを見極める感性が必要なのだと思うが、難しい課題を抱えてしまった。「人を動かす」挨拶をちゃんとすることが「論理」の第一歩と、ここから始めよう!

 

 

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成田空港より