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訃報に接して


少しでもかかわりを持ったことのある人の訃報ほど、哀しく、自分の生き方にまで、暗い影を落としてしまうことはない。ましてや、その人のまじめさ優しさが伝わってきている場合は一層つらいものがある。「お悔み」とは、死者よりも自分の側のものであることを改めて思う。今月の最初の講座で、その人の異様な声を耳にし、「どうされたのだろう。大変なことでなければいいが……。」と思ったばかりだったので、お見舞いの言葉もかけずに済ませたことを悔やまれるのだ。なんとか救えなかったものだろうか、何とかしてやれなかったものか、などと、恨めしい気分も湧きたつ。取り返しのつかない失態をしでかしたような気持が波状攻撃してきて、なにをしても元気が出ず、意欲がかすれてしまう。

あらためて、「生」と「死」の峻別を思ってしまう。いくら健康に気を使っても、いくら祈りをささげても、真っ当に生きなければと努力しても、死は、そういう「文脈」など考慮しないのだ。それでいて、「死」に裏打ちされない「生」は意味がないのも同様だ。「死」を越えられるような生き方を目指すべきなんだろうが、そんな形而上学には、どうしても進めないでいる。

きっと「光なって、向こうに」あるのだろう、と思うのもこちら側の気休めでしかないようにも思う。「弔文」を書くことで、かれを送るのみ。どうか安らかに。

 

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