KEIKO KOMA Webサロン

聖なる世界に


今日は、昨日とはまるで違う1日でした。同じ人生の一日であることが不思議な程に、昨日のコンサートで大きく生命の状態が変わりました。先生のコンサートの威力が身にしみました。昨日は甲州街道を車で走り、府中の森に向かう道中、コンビニや量販店、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、様々な飲食店、学校等々を見るだけで未来に希望を感じられずに、鬱状態が更に鬱になり、生きていくことがとても苦しい状態でした。今日は、同じ道を走る時、なんでもコツコツと継続していけばいつかきっと良い実りが生まれると感じ、立ち並ぶ会社やお店、学校を見ると、働く意欲が湧いてくることが自分でも驚く変化でした。そして何より、朝起きた時に生きていてもしょうがないと感じることなく、目覚められたことが夢のようと感じました。私はいだきの仕事をさせていただいているので、朝目覚めた時に生きていることが辛く感じる自分の状態がなんなのかを長年考え続けてきました。最初の頃、先生に質問させていただいた時に、社会が悪いので、そう感じるのだとお答えいただき、深く納得し、良い社会を作ることが答えと考え、活動してきました。いまだに生きていることが辛く、朝は鬱になる自分をなんとかせねばと深刻に考え、抜け出そうとしていました。今朝はなかったのです。驚きました。

昨日とはまるで違う状態でコンサートホールに向かい、今日のコンサートが楽しみでなりませんでした。メッセージを読ませていただいた時に、「継続した先に」とのタイトルから嬉しくて未来を感じていました。今日のメッセージも先生でなければ書けない人間の心理を言い当てた素晴らしいメッセージでした。「連続」と「継続」の違いも教えていただきました。

「「継続」は行為や状態が途切れずにそのまま続いていることを表しています。似ている言葉で「連続」という言葉があります。「連続」は単に複数の物事が続いていることを表しています。コンサートに来て、疲労感に襲われたと感じ、急に眠気をもよおして眠ってしまうという方達はさて、「連続」でしょうか?「継続」でしょうか?」

メッセージは更に続いています。最後には

「継続は力なり」と云います。さて、この力はいついかなる時に飛躍の力になるでしょう」ずっと考えながら聴かせていただきました。ピアノとパイプオルガンの演奏をお聴きしている時、自分の意識は、死に向かっていると気づきました。「継続した先に」というメッセージタイトルばかりが心に浮かび続けていました。私の先は死であると気付いた時、それこそハッとし、恐ろしく感じました。意識は常に先へ先へと気を回し、自然と段取りを考えています。その先は死であると気付いた時、人間がこの世に生まれ、死んでいくという誰もが生きる人間の人生もつくりものであったのかと初めて考えました。この世に生まれ、いつか死んでいくのが人間の人生とは作られた人生なのかもしれないと考え始めた時、作られた人生を生きるから生きていることが辛くなったり、生きていても仕方がないと鬱になったり死にたくなるのかもしれないと考えました。そうであるなら作られた人生ではなく本当の人間の人生を生きていきたいと望みました。

第2部は「一者から伝わる聖なる継続」

「ここで云う「聖」とは穢れなく、清らかで尊い様です。だからこそ「継続」できます。内面に巣食う死に誘う力。「継続」を突然断ち切ります。悲劇です。故に「聖なる継続」こそが「継続」の名に値します」

 

内面に巣食う死に誘う力という表現に心臓の奥深くがギクリと動き、驚きました。私は自分の内に色濃くあることを自覚し、常に苦しみ、考えてきたことです。先生に出会う前は死ぬことばかりを考えてきました。「麗花」の詩にも書いていますが死にたい訳ではないのに、生きる答えが見つけれずに苦しいので死ぬよりないと常に悩んできました。父母がいたので、生きてきたのです。先生に出会ってからは苦しみ、悩んできたことの答え、何より求め続けてきた人間とは何か、どう生きるかの答えを見出し死を考えることはなくなりました。が、時折襲ってくる生きていても仕方がないという暗闇に呑まれます。その時、生命助けていただき、生命ひとつに生きてくださり、常に生きていけるように人間とは何かを教えてくださり、ずっと人間が生きていける世界を作り続けてくださっている先生にお礼もできずに死ぬことはできないとただそれだけがあり続けました。お礼どころか生命一つで生きてくださっているのに、自分で断ち切ることだけはしてはいけないこととは生命をもってわかっていましたので、そこが生命綱であったと感謝しています。それこそこと半ばで終わったら、先生を裏切ることになると考え、人間とし真っ当に生き、真っ当に死ぬことよりお礼はできないと考えています。先生の演奏をお聴きしていると聖なるエネルギーに満ち、それこそ「一者から伝わる聖なる継続」と感じ、先生につながることで「死に誘う力」に乗っからずに生きてこれたとは生命をもってわかっています。それほどに、死に誘う力は大きく強いと感じています。

パイプオルガンの演奏では、神に誘われているように感じました。この先には「継続した先」が見えると感じました。私が先回りする先はこの世の生まれて死ぬという道です。この道ではない真に人間が生きる道があるならば、先は未知であると感じます。生まれて死ぬ道を生きていると、「今」を生きていけずに、死に向かっていきます。「今」「今」を生きていければ、常に未知なる世界へ向かっています。幼い頃からの人生が見えました。毎日、朝起きて食事をし、学校に行き、また夜に眠り、朝が来るという繰り返しで生きていると死にたくなるのでした。今でも同じことを繰り返していると急に死にたくなるのです。それだけはできないと重々わかっていますので、内面を感じ、大いなる存在とつながることに必死となり生きてこれました。先生のこと、大いなる存在につながることを忘れてしまうと生きていけなくなります。死の誘いを断ち切れるのは先生のこと、大いなる存在とつながることと身にしみ経験してきました。最後は、胸ひらき、大いなる存在あらわる空間と一つになり何でもできる気概、力がみなぎってきました。昨日のコンサート前の限界は先生から「死の壁」と教えていただき、深く合点がいきました。東北から帰京した日から内面に今まで見たことのない壁が見えていたのです。見た瞬間、死ぬのかもしれないと不安が生まれたのです。その後、絶不調になり、機械であれば電池切れと周りの人に言っていたのです。目に見えない世界が見えることも気が狂いそうになる程、辛くなり、目に見えるゴミも見えないゴミも集まってくる自分の傾向にもほどほど疲れ果てました。今日も、自宅の前は落ち葉が風に吹かれて集まってきます。掃いても掃いても、風が吹くと自然と集まり、家の前で止まります。落ち葉もゴミも集まってくる位置にあるのです。落ち葉をお掃除することは苦になりませんが、人が捨てたゴミをお掃除することは何故こんなことをするのかと人間の礼儀のなさに嫌気がさします。家のお掃除を依頼しても目に見えない重荷を置いていかれ、その後始末に時間と労力がかかり、かえって疲れてしまいます。亡き兄に「掃除をする為に生まれてきたのか」と言われる程、いつもお掃除ばかりをしています。目に見える汚れも見えない汚れも見えてしまうので、気が狂いそうになるので、お掃除をするよりないのです。この人生も疲れたと昨日のコンサート前は、力尽き、限界を感じていました。コンサートが終わったら、新しい生命を得、メッセージにありました「第一のこと」も「やりたいこと」も分かり、限界の壁は突破していました。今日は、落ち葉が風に乗り、自宅の前に集まってきても、毎日未来がなく同じことを繰り返している街の様子を見ても、私には、人間の生きる場を作っていけばいいのだと未来が見え、やる気が出てくるのです。こうも変われることかと感謝で一杯です。先生から「死の壁」は人間誰しもがあるとお聞きでき、深く合点すると共に、それこそ生まれた時から襲われていた死の誘いからやっと抜け出せた喜びが溢れています。生まれて初めてのことです。ずっと苦しんできたことです。いだきの仕事をさせていただいていますので、希望ないことは表現しては人様に迷惑がかかりますので、そうそうは言えないことでしたが、最も大きな問題とし、常に考え続けてきたことです。今日から「聖なる継続」ができる喜びが胸の内に広がり、とても晴れやかです。コンサートがなければ、生命あり、この経験ができることはなかったでしょう。コンサートの計り知れない意味をもっとお伝えさせていただけますようになります。そして希望ある生き方こそが真に人のお役に立てることと考えます。ありがとうございます。

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