KEIKO KOMA Webサロン

狛江にて


2日間の高句麗伝説コンサートに参加するため、この度は国領駅付近で宿泊する計画で東京に参りました。国領駅から狛江駅までは、歩く計画でした。
仙台で天気予報を見ると、気温が高く、雨の可能性もある状況でした。
しっかりした折りたたみ傘を持参しました。

結果は、涼しく雨に当たらず、計画通り、狛江通りを歩いて移動いたしました。街路樹や庭先の植物が、鬱蒼と力強く生えておりました。幼い頃、夏に三鷹の従姉妹の家に泊まった時、やはり緑が鬱蒼としていた事を思い出しました。私は「三鷹に行く」夏がとても好きでした。初めて乳歯が抜けたのも三鷹でした。

昨日の高句麗伝説では、琴の音から太古のエネルギー、と感じました。暗黒にうごめく、グニグニと踊る様な重厚な、しかし魔の類ではない単一のエネルギー、と感じました。縄文を思い浮かべました。

高麗さんがティールの詩を詠まれた時、「9,000年前の都市」という事実を、初めてしっかり認識しました。私のわずかな歴史認識から、イエス・キリストが2,000年前だから…と考え、それよりも遥か昔であることに大変驚き、フェニキア人はどの様に生きていたのかと想像しました。街が破壊されても、魂は今に存在している、と認識して過ごします。これから、気づく事があると感じます。

「おと」の詩では、やっぱりそうなんだ、ととっさに嬉しくなりました。
先日、無意味に点いているテレビを消した時、開けた窓から蝉の声や街の騒めきを、それから父母が居るという音を身体全体に感じ安らぎました。お米を研いだ後、お釜に耳を寄せると、お米からプチ、プチという音が聞こえました。水を吸っている音だと思いました。微かな音に今を感じる事が、とても安らぐと経験しました。

本日は、狛江の図書館に行きました。閲覧は60分以内で…と定期的に放送が流れ、閲覧席も60分以内のご利用で…と記載がありました。いだきしん先生がお話されていた『自殺論』を開き、かなり飛ばして読みました。「アノミー的自殺」の項を拾い読みし、最後の方を拾い読みし、「教育」について書いてある部分を見つけました。
私の読み取りで恐縮ですが、「(アノミー的自殺を思い留まらせるための)道徳的感受性は、法律で善悪を規定して決まるものではない。」「教育に期待する意見もあるが、その能力は、教育にはない」「学校という人為的な環境が、子どもを一時的に社会の影響から保護したとしても、やがて現実の生活が深く子どもをとらえ、教育によって育んだことを破壊するまでになるだろう」「教育は、社会を反映するものであり、教育に社会を創造する力はない」「社会自体が改革されなければ、教育は改革されない」という様な内容だと私は読み取りました。間違えていたらすみません。

専門家がこのように明確に教育の限界を示してくれているのに、教育が道徳的感受性を育て足りないから世の中が乱れるのだ、と短絡的に道徳を教科にすることは、やっぱりおかしいことでした。

そして、社会を変えるには、人間の内面が変わらなければ実現しないことも分かります。

本日も高句麗伝説コンサートに参加いたします。ありがとうございます。

高橋 由珠

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